パンク・ロックの歴史入門〜ニューヨークとロンドン、3コードから始まった音楽

「これがコードだ。これもコードだ。3つ目はこれ。さあバンドを組め。」
1977年、ロンドンの手作り音楽誌に、こんなページが載りました。ギターの押さえ方の図が3つ。説明はそれだけです。
冗談ではありません。この図を真に受けて、本当にバンドを組んだ若者が英国中にいました。
パンク・ロックの核心は、速さでも革ジャンでもありません。「上手くなるまで待つな」。この一点です。ニューヨークの場末の酒場と、ロンドンの洋服屋の店先。海を隔てた二つの街で、同じ考え方がほぼ同時に火を噴きました。
ロックが「観るもの」になっていた1970年代半ば
当時のロックの主役は、巨大な会場を埋めるスターたちでした。20分を超える組曲、複雑な変拍子、豪華な照明とセット。演奏の腕は超一流。ただ、ギターを買ったばかりの十代には、遠すぎる世界です。
舞台と客席の距離は、開ききっていました。
一方、荒っぽく短い曲を鳴らし続けるバンドが地下にいました。デトロイトのザ・ストゥージズやMC5、ニューヨークのヴェルヴェット・アンダーグラウンドやニューヨーク・ドールズ。売れませんでした。それでも、あの乱暴な音は次の世代の耳に残ります。
パンクは無から生まれた音楽ではありません。忘れられかけた「うるさくて短いロック」の再発見です。最初の火種は、マンハッタンの治安の悪い一角にありました。
CBGB——場末の酒場がラモーンズとパティ・スミスを生んだ

火種の名はCBGB。1973年に開いた小さなライブバーです。店の方針はひとつだけ。「オリジナル曲をやるバンドなら出してやる」。この一言が、行き場のない若者を吸い寄せました。
ここで生まれた最大のバンドがラモーンズです。全員が芸名の姓を「ラモーン」に統一。革ジャンと破れたジーンズで横一列に並び、「ワン、ツー、スリー、フォー!」の掛け声から猛速の曲をたたみかける。1976年のデビュー作は、14曲でおよそ29分でした。1曲あたり2分あまり。装飾を全部そぎ落としたら何が残るか、という問いへの回答のような音楽です。
私は初めてこの1枚を通して聴いたとき、あっけなさに笑ってしまいました。気がつくと、2周目に入っていました。
同じ店から、まるで違う表現も出てきます。詩人のパティ・スミス。朗読とロックを地続きにしたアルバム『ホーセス』は、パンクが言葉と態度の音楽でもあると示しました。テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、ブロンディも同じステージの出身です。ニューヨークのパンクに決まった型はありません。あったのは「何をやってもいい場所」でした。
1976年、ラモーンズは英国に渡って公演します。客席にいたのは、数か月後に国中を騒がせることになる若者たちでした。
セックス・ピストルズはなぜ「事件」と呼ばれたのか

ロンドンのパンクは、音楽というより社会的な事件として始まりました。
その中心がセックス・ピストルズです。曲を聴いたことがなくても、名前は知っている。あなたもそうではありませんか。仕掛け人は、若者向けの服屋を営むマルコム・マクラーレン。ボーカルのジョニー・ロットンは、吐き捨てるような声で体制を罵倒しました。不況と失業に沈む英国で、若者の不満は行き場を失っていました。ピストルズはそこに火を放ちます。
決定打はテレビでした。1976年の暮れ、生放送で放送禁止用語を連発した一件が翌朝の新聞を飾り、彼らは一夜で国民的な問題児になります。レコード契約は短期間で打ち切られ、移籍先でもまた騒動。1977年、女王在位25周年の祝賀に合わせて出した曲は放送を敬遠されましたが、締め出されるほど名前は大きくなりました。
残した正規アルバムは、たった1枚です。
活動はごく短命でした。それでも、数か月前まで客席にいた人間が翌月にはステージに立つ、という連鎖が英国中で起きます。その中から、この怒りを別の場所へ運ぶバンドが現れました。
クラッシュ——怒りを「壊す」から「建てる」へ
ザ・クラッシュは、ロンドン・パンクのもう一方の主役です。ピストルズが破壊のバンドなら、クラッシュは建設のバンドでした。
ジョー・ストラマーたちが歌ったのは、失業、人種差別、警察、戦争。そして音楽の壁を自分から壊していきます。移民の街ロンドンで身近だったレゲエを取り込み、スカもロカビリーも、後にはヒップホップまで飲み込みました。2枚組『ロンドン・コーリング』は、その雑食ぶりが結実した1枚です。
パンクは3年で燃え尽きた、とよく言われます。クラッシュがやったのは、その火を消さずに隣へ移し替える作業でした。
では、燃えていた3年のあいだに、音以外の何が残ったのか。
3コードとDIY——パンクの発明は音ではなく「仕組み」
冒頭のコード3つの図に戻ります。あの1ページの言い分は、要するにこうです。上手くなってから始めるな。始めてから上手くなれ。
合言葉はDIY——Do It Yourself。自分でやれ。
大手レーベルが相手にしないなら、自分でレーベルを作る。雑誌が載せてくれないなら、コピー機で刷って手売りする。会場がなければパブの一室を借りる。自主制作でシングルを出すバンドが現れ、英国中に小さなレーベルが次々に生まれました。
この流通の仕組みこそ、パンク最大の発明です。後のインディーズ音楽は、ほぼこの骨格の上に建っています。宅録の曲を自分でネットに上げられる今の環境も、発想の起源をたどれば半世紀前のコピー機に行き着きます。
音楽そのものは、どこへ行ったのか。二つに割れました。
ポストパンクとハードコア——3年で終わり、終わらなかった
ひとつめの流れがポストパンクです。3コードの型に早々に飽きた人たちが、「何をやってもいい」という態度だけ残して音楽を解体しました。冷たく硬質なジョイ・ディヴィジョン。リズムをばらしたギャング・オブ・フォー。ピストルズ解散後にジョニー・ロットンが始めたパブリック・イメージ・リミテッド。この水脈が、のちのオルタナティヴ・ロックへ流れ込みます。
ふたつめはハードコア。主にアメリカで、パンクをさらに速く、短く、硬くした流れです。各地のシーンが自前のレーベルとライブハウス網でつながり、バンドは車で全米を回りました。1990年代に花開くオルタナティヴやメロディック・パンクの多くが、この地下ネットワークの出身です。
日本でも1980年代から独自のシーンが育ちました。好きな日本のバンドの経歴をたどってみてください。どこかで自主制作盤や自主企画のライブに行き当たるはずです。それもコード3つの図の、遠い子孫です。
よくある質問
Q. 演奏が下手でもいいというのは本当ですか。
「下手でいい」ではなく「上手くなるのを待たなくていい」が正確です。ラモーンズもクラッシュも、活動しながら腕を上げました。順番が逆になっただけです。
Q. ニューヨークとロンドン、どちらが先ですか。
シーンとして先に動いたのはニューヨークです。ただ、ロンドン側にも独自の下地があり、単なる輸入ではありません。1976年のラモーンズ英国公演が現地の若者に火をつけた話は、よく語られます。
Q. 何から聴けばいいですか。
ラモーンズの1作目、ピストルズの唯一のアルバム、クラッシュの『ロンドン・コーリング』。この3枚で、速さ・怒り・広がりという三つの顔がつかめます。
まとめ:コード3つから始めていい
- 1970年代半ば、巨大化したロックへの反動として、ニューヨークとロンドンで同時に噴き出した
- 場末の酒場CBGBから、ラモーンズやパティ・スミスら型の違う表現が育った
- ロンドンではピストルズが事件を起こし、クラッシュが火を隣のジャンルへ運んだ
- 最大の発明は「3コードとDIY」の仕組みで、インディーズ音楽の骨格になった
- 流れはポストパンクとハードコアに分かれ、今のロックの土台に続いている
ラモーンズの1作目は30分かかりません。今夜、通しで1回だけ聴いてみてください。「さあバンドを組め」という1977年の図が冗談でなかったことが、耳でわかります。
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