死んだ師匠に弟子入りする——尾形光琳と琳派、100年ごしの継承

弟子入りを願い出たとき、師匠はもう死んでいました。
それも十年、二十年前の話ではありません。およそ100年前に世を去った絵師です。京都の尾形光琳は、会ったことのない俵屋宗達を師と定め、その絵を写して学びました。さらに100年後、今度は江戸の酒井抱一が、同じやり方で光琳の弟子になります。
血のつながりはない。工房もない。あるのは作品だけ。
琳派と呼ばれるこの流派は、名画そのものを教科書にして、およそ100年おきに受け継がれてきました。金色の屏風に燕子花だけが咲くあの絵も、この奇妙なリレーの中間地点に立っています。
会えない師匠に学ぶ——琳派をつないだ「私淑」という方法
直接教わらず、残された作品を通して一方的に師と仰ぐこと。これを「私淑」と呼びます。琳派の継承は、ほぼこの私淑だけで成り立っています。
流れを並べてみます。江戸時代の初め、京都で本阿弥光悦と俵屋宗達が組みました。約100年後、同じ京都で光琳が宗達の絵に学びます。また約100年後、江戸で抱一が光琳に学びました。三つの世代は、一度もすれ違ってすらいません。

リレーの証拠が『風神雷神図屏風』です。宗達が金地に描いた二神を、光琳がそっくり写しました。その光琳版を、今度は抱一が写します。抱一の弟子の鈴木其一まで含めれば、同じ構図が四度描かれた計算です。教科書を渡されたのではなく、名画そのものが教科書でした。
なお「琳派」という呼び名は近代についたものです。光琳の一字から取られていますが、当人たちは名乗っていません。では、出発点の二人は何をした人たちだったのか。
光悦と宗達——にじみを「失敗」と呼ばなかった人たち
本阿弥光悦は、刀剣の鑑定を家業とする家の生まれです。書、陶芸、漆芸、出版と手がけ、京都の鷹峯に土地を与えられて、職人たちを集めた芸術村を営みました。絵師というより、総合プロデューサーに近い人です。
組んだ相手が俵屋宗達でした。扇や料紙を作る工房の主と考えられていますが、生い立ちには不明な点が多く残ります。光悦が和歌を書き、その下絵に宗達が金銀泥で草花や鶴を描いた巻物は、書と絵が対等に響き合う名品です。
宗達が広めた技法に「たらしこみ」があります。絵具が乾かないうちに別の絵具や水を落とし、にじみが作る偶然の模様をそのまま生かすやり方です。筆で形を追い込むのではなく、素材の動きに任せる。ふつうなら失敗と呼ばれる現象を、表現に変えました。
この感覚は、のちの琳派全体に流れ込んでいきます。そして宗達に100年遅れで弟子入りした男がいました。京都の呉服屋の、遊び好きの次男です。
身代を潰した呉服屋の次男が、40歳で絵師になる
尾形光琳は1658年、京都の高級呉服商「雁金屋」の次男に生まれました。得意先には宮中や大名家が並び、一流の染織品と美術品に囲まれて育ったといわれます。
若い頃の光琳は、働きません。父の遺産を能や茶の湯、遊興に注ぎ込みました。家業は傾き、財産は底を突きます。絵で身を立てようと動き出したのは、40歳前後でした。
遅すぎる出発に見えます。ただ、呉服屋で染み込んだ感覚が、そのまま武器になりました。着物の柄は、限られた面をどう区切り、何を省き、どこに余白を置くかの勝負です。光琳の絵が「絵画」というより「デザイン」に見える理由は、ここにあります。
その感覚がいちばん濃く出たのが、金地に燕子花だけを咲かせた屏風です。
『燕子花図屏風』——橋も水も描かずに、川を感じさせる
東京・根津美術館が所蔵する国宝『燕子花図屏風』は、六曲一双、つまり六面の屏風二つで一組の大作です。描かれているのは、青い燕子花の群れだけ。
下敷きは『伊勢物語』の「八橋」の場面と考えられています。燕子花の咲く沢に八つの橋が架かり、旅人が都に残した人を思って歌を詠む、有名な段です。屏風の前に立ったつもりで、橋を探してみてください。どこにもありません。光琳は橋も水も岸辺も消し、花だけを残しました。それでも見る人は、金色の余白に水面と湿った空気を感じ取ってしまいます。
もう一つ、仕掛けがあります。花と葉の形が、画面のあちこちで繰り返されています。型紙を使ったのではないかと指摘されるほどの反復です。写生を積み上げた絵ではなく、模様として組み立てられた絵。それでいて群生の勢いも、風の通り道も伝わってきます。
省略と反復。着物の意匠の発想そのものです。では、もう一枚の国宝はどうでしょうか。
『紅白梅図屏風』——中央の川は、渦巻き模様でできている

静岡・MOA美術館が所蔵する国宝『紅白梅図屏風』は、二曲一双の屏風です。中央を太い水流が縦に流れ、右に紅梅、左に白梅。構図は一目で頭に入ります。
川をよく見てください。水面の渦が、図案化された文様でぐるぐると描かれています。写実ではありません。それでも、水の量と流れの速さははっきり伝わる。両脇では梅の幹が大胆にねじれ、枝は画面の外へ突き抜けていきます。
背景の金地には謎が残っています。金箔なのか、金泥なのか、別の技法なのか。科学調査と議論が重ねられてきましたが、制作年代を含めて確定していない点があります。国宝にも、わかっていないことはあるわけです。
光琳の死後、この画風は途絶えかけました。拾い上げたのは、江戸の大名家に生まれた男です。
100年前の絵の裏側に「返事」を描いた男、酒井抱一

酒井抱一は姫路藩主家の次男に生まれ、その身分を離れるように出家して、絵に生きた人です。江戸で光琳に私淑し、光琳の百回忌を営み、作品を集めた版本『光琳百図』を出して、その画風を世に広めました。
代表作『夏秋草図屏風』には、特別な事情があります。描かれた場所が、光琳筆『風神雷神図屏風』の裏面でした。風神の裏には風に吹かれる秋草を、雷神の裏には雨に打たれる夏草を配しています。
この対応を初めて知ったとき、私は100年越しの手紙の返事のようだと思いました。神々の起こす風と雨を、裏側の草花が静かに受け止めている。銀地の画面は、金地の表とは別の涼しい世界です。
弟子の鈴木其一はさらに色彩を研ぎ澄まし、琳派の造形は近代へ渡っていきます。対象を平面の形と色に置き換えるやり方は、現代のグラフィックデザインの発想と地続きです。「光琳模様」は今も、着物や和菓子や包装紙の上で生きています。
よくある質問
Q. 琳派と狩野派は何が違うのですか?
狩野派は血縁と工房組織で続き、幕府や大名に仕えた職業絵師の集団です。琳派には組織がありません。町人や文化人が、作品を手本に自発的に受け継ぎました。
Q. 『燕子花図屏風』や『紅白梅図屏風』はいつでも見られますか?
どちらも国宝の屏風で、保存のため展示期間が限られています。訪問前に、根津美術館とMOA美術館の公式サイトで公開情報を確認してください。
Q. 尾形乾山とは誰ですか?
光琳の弟で、京焼の陶工です。乾山が作った器に光琳が絵付けをした合作が伝わっており、兄弟で造形の感覚を分け合っていたことがうかがえます。
まとめ
- 琳派は血縁でも師弟でもなく、「私淑」でおよそ100年おきに受け継がれた流派
- 出発点は本阿弥光悦と俵屋宗達。たらしこみなど、素材に任せる技法が原点
- 光琳は呉服商の次男。40歳前後で絵師になり、着物の意匠感覚を絵に持ち込んだ
- 『燕子花図屏風』は橋も水も省き、形の反復だけで沢の情景を立ち上げた
- 『紅白梅図屏風』は川を文様化し、写実に頼らずに流れの速さを伝えた
- 抱一は光琳の屏風の裏に『夏秋草図』を描き、リレーを江戸へつないだ
美術館で琳派の屏風に会ったら、一歩下がって、形と余白の配置だけを眺めてみてください。会ったことのない師匠へ、100年ごしに返され続けた「返事」の連なりが見えてきます。
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