日本のロックの歴史と活躍したアーティスト1950〜1960

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昔のJPOPってどんな感じだったんだろう?
ということで、今回は日本の音楽の歴史をお伝えします。
歴史は繰り返すと言われていますが、音楽の歴史を知ることで、ミュージシャンは今後どういったアプローチをしていけばいいかというヒントを得られるかもしれません。
ということでいってみましょー。
日本初のリリース
初めて売り物としてリリースされたCDは1928年に佐藤千夜子がだした「波浮の港」といわれています。
■佐藤千夜子 – 波浮の港
この頃はまだ日本にロックはありません。
ロックが登場するのが1950年代なのでここから約30年後に日本にロックンロールというものが輸入され盛り上がりをみせます。
そもそもロックはどこでいつからはじまったの?
まず、それを知らないとわかりづらいと思いますので簡単に説明します。
ロックはアメリカで1950年代に生まれました。
ロックと言ってもロックンロール。
クラシックなロックンロールをロカビリーといったりもします。
ただし、これはどのジャンルにも言えることですが具体的にいつロックンロールが誕生したのかは定義がものすごく曖昧なのでわかりません。
ジャーナリストのグレッグコットによれば、「ロックンロール」とは、1950年〜1960年代半ばまでに米国で始まったポピュラー音楽のスタイルを指しているといいます。
しかし、ロックンロールを流行らせ定着させたのは、ラジオDJであるアラン・フリードと言われています。
彼は1950年代初期に白人向けのラジオ番組を担当し「ムーンドッグズ・ロックンロール・パーティー」と名付け、黒人のR&Bを流しまくりそれをロックンロールと呼びました。
「ロックンロール」はもともと黒人の間で使用されていたスラングで、はじめはセックスを表すものでしたが「楽しい時を過ごす」「パーティをする」などの意味を持つようになり、1950年以降はブルースやジャズの歌詞の中に表れるようになりました。
白人はカントリー&スウィング、黒人はリズム・アンド・ブルース(R&B)、ジャズを演奏している中で激しいビートのダンスミュージックとしてできたのが「ロックンロール」です。
しかし、キング・オブ・スウィングで知られるボブ・ウィルズはこう言いました。
“Rock and Roll? Why, man, that’s the same kind of music we’ve been playin’ since 1928!… But it’s just basic rhythm and has gone by a lot of different names in my time. It’s the same
ロックンロール?同じような音楽を1928年からやってるぜ!
俺たちの時代は色んな名前で呼ばれてきたけど、同じさ。
といっております。
1964年の公民権法(人種差別を禁止する法律)が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も差別的で、同じ曲を同じ編曲で歌ったとしても黒人が歌えばリズム・アンド・ブルース、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だったのです。
そう、ジャンルがあってないようなもの。
そんな中でてきたのが、キング・オブ・ロックンロールといわれるエルビスプレスリーです。
彼は人種差別がある中で黒人のR&Bを歌うことで、PTAや宗教団体からの批判はかなりありましたが、それと同時に若者の心をガッチリとキャッチし1956年にリリースした「Heartbreak Hotel」が大ヒットし、一気にスターダムにのし上がりました。
エミネムがヒップホップ版エルビスプレスリーといってるのはこのためです。
もちろん他にも色んなアーティストがおり、アメリカでロックンロールのムーブメントを作り上げたわけですが、そのエルビスの「Heartbreak Hotel」をリリースから約半年後に日本でカバーしたのが小林一也氏。
ロックンロールをいち早く取り入れた2人
■小坂一也 – ハートブレーク・ホテル / 1956
高校生の頃からバンド活動を始め、進駐軍のキャンプなどで演奏し、「ワゴン・マスター」でデビュー。カントリーのアイドルとして人気を得ていました。
プレスリーのこの曲をいち早くカバーして日本にロックンロールを広めたことで元祖和製プレスリーと呼ばれ、紅白歌合戦でこのハートブレイクを演っています。
しかし、その前にロックンロールを既にやっていた人がいたんですね。
それが江利チエミ氏。
■江利チエミ – ロック・アラウンド・ザ・クロック / 1955
もともと15歳でジャズ歌手としてメジャーデビューし、「テネシーワルツ」のカバーが大ヒット。
美空ひばり以来の天才少女といわれるようになります。
オリジナルは、ビル・ヘイリーというアーティストで1954年発売当初はパッとしなかったんですが、55年に映画「暴力教室」の主題歌になったことで一気に脚光をあび、この曲が世界初のロックンロールを世に知らしめたヒット曲のひとつといわれています。
この2人に共通して言えるのは進駐軍のキャンプで演奏していた事。
この頃は米軍を通して色んな音楽が輸入されてきました。
そういった中で、やはり対米兵に演奏する機会が多かった2人はアメリカの音楽をいち早くとりいれました。
戦争が終わり、アメリカの占領下に置かれた事によってロックンロールブームが他の国よりも早く訪れたといってもいいでしょう。
そして、小林氏のロックンロールでぶいぶいいわせる姿をみてロックンロールが浸透していきます。
翌年の1957年の紅白歌合戦ではこの流れにのった雪村いづみがジーン・ビンセントの「ビー・バップ・ア・ルーラ」浜村美智子がプレスリーの「監獄ロック」をカバー。
■雪村いづみ – ビバップ・ア・ルーラ / 1957
雪村いづみ氏は同年代の人気少女歌手、江利チエミ・美空ひばりと共に「三人娘」の一人として称される「世紀に一人のシンデレラ」と称される歌手。
若い頃は家計を支えるために進駐軍相手に歌うアルバイトをし、テレサ・ブリュワーのカバー曲「想い出のワルツ」でデビューしました。
その後は女優やモデル様々な分野で活躍しています。
ポールマッカートニーが初めて買ったレコードがこの楽曲で、ビートルズでもカバーしています。
■浜村美智子 – 監獄ロック / 1957
プレスリーの三枚目のシングルとして大ヒットした曲。
浜村美智子氏はモデルとして活動している中、「雰囲気が楽曲にあう」という理由から「バナナ・ボート」をカバーする「カリプソの娘」として未経験ながら歌手デビュー。
デビュー当時はあまりの人気ぶりに美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの三人娘の後継と評されてました。
この曲は日本では浜村美智子以外にも平尾昌晃、小坂一也&ワゴン・スターズ、奥田民生、ダウンタウン・ブギウギ・バンドにもカバーされている楽曲です。
日劇ウエスタンカーニバル
1958年2月に「日劇ウエスタンカーニバル」が有楽町の日本劇場で開催され、ジャズ喫茶でロックンロールを披露し人気を得ていたた平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がカーニバルへの出演がきっかけで「ロカビリー三人男」としてデビューしてさらに盛り上がりをみせます。
■平尾昌章 – 星はなんでも知ってる / 1958
この曲はオリジナル曲の先駆けといわれており、15万枚もの売上げを記録したことによりカバー→オリジナルに移行していきました。
■ミッキー・カーチス – 君は我がさだめ / 1958
■山下敬二郎 – ダイアナ / 1958
この日劇ウエスタンカーニバルを主宰したのがホリプロの創業者の堀威夫、シンコーミュージックの草野 昌一、渡辺プロ名誉会長の渡辺美佐というメンバー。
堀威夫はもともとウエスタンカーニバルというイベントを有楽町で開催しておりどんどん人気になっていったので、もっと大きなところでできないかと思いたちます。
しかし、当時一番大きいとされていた日本劇場とのコネクションがなかったので何度か日劇にジャズプレイヤーとして立った事がある渡辺美佐の旦那、渡辺晋を尋ねると妻に相談してと言われます。
渡辺プロを立ち上げたばかりの渡辺美佐も当時盛り上がりをみせていたロックンロール/ロカビリーシーンに可能性を感じ、日本のエンタメの底上げをしたいと同じ思いを持っていた事から協力し「日劇ウエスタンカーニバル」開催にいたります。
初日だけで9500人、1週間で45000人を動員する大成功を収めます。
このイベントは1977年まで同じ名前で運営されるビッグイベントとなりました。開催していく中で、内田裕也やかまやつひろしなど、後の日本ロックを作創世に貢献していく人たちも参加していくようになります。
ロカビリーとは?
ロカビリーというジャンルも結構謎ですが、黒人音楽のブルースと、白人音楽のヒルビリーやカントリー、ブルーグラスが融合して生まれたといわれてます。
ロカビリーでは基本ウッドベースを使っているのでそこをみるとわかりやすいと思います。
ただアメリカで流行っていたのは1954年からの数年間。理由は取り扱いが簡単なエレキベースを使うようになったからです。
ウッドベースはでかいし重たいですからね。
1960年にはロカビリーが演奏されることはなくなり、ツイストブームがきてロカビリーは終了のお知らせです。
結局、その後、ロカビリーやロックンロールを抽象的な「ロック」にまとめられることになるわけですが、ご覧になってわかる通り、50年代の日本は「翻訳ポップ」といわれる替え歌みたいな感じが多いです。
とはいえ、この頃は英米でも曲を作ることと歌うことは分業で行われていて、エルビスも自分で楽曲を作ってるわけではないのです。
■清野太郎 – ロックを踊る宇宙人 / 1958
日本人で唯一エルビス・プレスリーの前で歌った歌手と言われています。
オリジナルはシェブ・ウーリーの「The Purple People Eater」。
ちびまる子ちゃんのエンディングテーマ 「針切じいさんのロケン・ロール」の元歌です。
60年代へ
58年の平尾昌章 のオリジナル曲「星はなんでも知ってる」のヒットをきっかけに楽曲のオリジナル化、歌謡曲化が進んできます。
1960年代はビートルズやボブ・ディランらによって持ち込まれた自作自演のいわゆるシンガーソングライターの流れが主流になっていきます。
イギリスの爆進がはじまります….。