インド古典音楽入門|楽譜なしで2時間即興できるラーガとターラ

19世紀後半のシタール(メトロポリタン美術館蔵)。長い棹に共鳴弦を備えた、北インド古典音楽の主役
19世紀後半のシタール(メトロポリタン美術館蔵)。長い棹に共鳴弦を備えた、北インド古典音楽の主役

なぜインドの演奏家は、楽譜なしで2時間の即興を崩さずに続けられるのか。

インド古典音楽には、楽譜がありません。指揮者もいません。それなのに演奏は平気で1時間を超え、初対面の奏者同士でも音楽が成立します。西洋のクラシックが「書かれた曲を再現する音楽」だとすれば、こちらは「その場で生まれる音楽」。

聴きどころも独特です。コンサートが始まって10分、まだチューニングをしているように聞こえる。拍はなく、メロディーらしいメロディーもない。それでも客席のインドの聴衆は、身を乗り出して聞いています。とっくに演奏が始まっていることを、知っているからです。

でたらめに聞こえますか。逆です。この音楽は、二つの厳密なルールの上に立っています。名前は、ラーガとターラ。まず旋律の側から。

ラーガとは何か——「曲」でも「音階」でもない旋律の法則

ラーガを一言でいうと、旋律の法則です。

ドレミのような音階とは違います。一つのラーガには、使ってよい音、上がるときの音の並び、下りるときの並び、強調すべき音、決まり文句のようなフレーズが定められています。そして、そのラーガ特有の気分。祈り、恋、雨雲、深夜の静けさ。

つまり「この材料と文法で、この気分を語れ」という決まりの束です。

作曲家が書いた一本の完成したメロディーではありません。演奏者はラーガの文法を守りながら、その場でメロディーを作り続けます。同じラーガを百人が弾けば、百通りの演奏になります。それでも聞く人には、同じラーガだとわかる。

ラーガの数は数百あるといわれ、演奏家は師匠から一つずつ、口伝えで体に入れていきます。

ここまでが旋律の話。ではリズムは、誰が決めているのか。

ターラとは何か——16拍の円をぐるぐる回るリズム

演奏中のタブラ。右の小さな胴と左の金属胴、二つひと組の打楽器です(Photo: Rounik Ghosh / CC BY-SA 4.0)
演奏中のタブラ。右の小さな胴と左の金属胴、二つひと組の打楽器です(Photo: Rounik Ghosh / CC BY-SA 4.0)

西洋音楽のリズムが直線だとすれば、ターラは円です。

たとえば代表的なターラ「ティーンタール」は、16拍でひと回り。1拍目に戻ってきた瞬間が「サム」と呼ばれ、いちばん重い着地点になります。演奏者たちは16拍の円をぐるぐる回りながら、サムでぴたりと合流する。

この円を叩くのが、タブラです。

右手用と左手用、二つひと組の太鼓で、指と手のひらを使い分けて驚くほど多彩な音を出します。高く澄んだ音、低くうねる音。タブラ奏者は「ダー」「ティン」「ナ」といった音の名前を口で唱えられます。リズムに歌詞があるようなものです。

聴くときのコツを一つ。インドの聴衆は、ひざの上で拍を数えながら聞きます。手拍子と手の甲を返す仕草で円のどこにいるかを追い、サムで演奏者と一緒に「着地」する。わかると、客席がなぜあの瞬間にどよめくのかが見えてきます。

旋律の法則と、リズムの円。この二つが、あの長い即興を支えています。

即興が9割——インド古典音楽の演奏はなぜ崩壊しないのか

インド古典音楽の演奏は、大半が即興です。

冒頭の「チューニングのような時間」は、アーラープと呼ばれる導入部。タブラはまだ入らず、奏者はラーガの音を一つずつ確かめながら、そのラーガの気分を立ち上げていきます。あわてず、拍もなく、ときに30分。

やがてタブラが入り、ターラの円が回りはじめます。短い主題のフレーズを軸に、奏者は変奏に次ぐ変奏を重ね、テンポは少しずつ上がっていく。終盤、シタールとタブラが掛け合いで加速していくところは、ジャズのセッションそのものです。

台本はありません。あるのは文法だけ。

ラーガが旋律の逸脱を防ぎ、ターラが時間の迷子を防ぐ。だから初対面の奏者同士でも、2時間の音楽をその場で立ち上げられます。自由は、無法から生まれない。私はこの音楽を聴くたび、その一点を思い知らされます。

そしてこの音楽には、もう一つ独特の決まりがあります。演奏する「時刻」です。

朝のラーガ、夜のラーガ——音楽に時間割がある

タンプーラを弾く女性を描いたインドの細密画(1735年頃)。開放弦を鳴らし続け、演奏の土台になる持続音を出す楽器です
タンプーラを弾く女性を描いたインドの細密画(1735年頃)。開放弦を鳴らし続け、演奏の土台になる持続音を出す楽器です

ラーガには、ふさわしい時間帯が割り当てられています。

夜明けのためのラーガ、昼のラーガ、日暮れのラーガ、真夜中のラーガ。さらに雨季のラーガまであります。朝のラーガを夜に弾くのは、伝統的には場違いとされてきました。音楽が時計と季節に結びついている。西洋のクラシックにはない発想です。

伝説もあります。名歌手が灯りのラーガを歌うと、ろうそくに火がともったと伝えられます。

科学の話ではなく、それだけ「ラーガ=気分=時間」の結びつきが強いという話です。実際、朝のラーガには澄んで張りつめた音使いが、夜のラーガには甘く沈む音使いが多い。聴き比べると、音の表情の違いは初心者の耳にも届きます。

なお、演奏の間ずっと背後で鳴っている「ブーン」という持続音は、タンプーラという楽器です。上の絵で女性が抱えている、シタールに似た楽器。基準の音を鳴らし続け、ラーガの音たちが帰ってくる「地面」を作ります。

この音楽が世界に知られたきっかけは、一人のシタール奏者でした。

ラヴィ・シャンカールは何を変えたのか——シタールが世界に出た日

ラヴィ・シャンカールは、北インド古典音楽のシタール奏者です。

サタジット・レイ監督の映画『大地のうた』の音楽を手がけ、欧米の一流ホールでインド古典音楽を演奏し、1960年代にはモントレーなど大観衆のロック・フェスティバルの舞台にも立ちました。正座して演奏する即興音楽を、世界の聴衆の前に運んだ人です。

ビートルズとの接点は、よく知られています。ジョージ・ハリスンがシタールに魅了されて「ノルウェーの森」でこの楽器を鳴らし、のちにシャンカールに弟子入りしました。ロックの聴衆がラーガという言葉を知ったのは、この出会いからです。

ただ、シャンカール本人が運んでいたのは流行の音色ではなく、ラーガとターラの体系そのものでした。入口はどこからでも構いません。奥にあるのは、数百年かけて磨かれた即興の文法です。

よくある質問

Q. 北インドと南インドで音楽は違うのですか?
違います。北はヒンドゥスターニー音楽、南はカルナータカ音楽と呼ばれます。ラーガとターラという原理は共通ですが、楽器も歌い方も発展が別で、シタールとタブラは北の楽器です。この記事は主に北の様式を紹介しています。

Q. 楽譜が本当にないのですか?
学習や記録のための簡単な記譜法はありますが、西洋のような「楽譜を見て演奏する」文化ではありません。師匠の演奏を耳と体で覚える口伝が基本で、本番はラーガとターラの枠内での即興です。

Q. 最初は何から聴けばいいですか?
ラヴィ・シャンカールのシタール演奏が入口として聴きやすいところです。1曲が長いので、まずアーラープ(静かな導入)とタブラが入る瞬間の変化だけ味わってください。配信サービスで「raga」と検索するだけでも多くの演奏が見つかります。

まとめ:今夜、円の1拍目を探す

  • ラーガは旋律の法則。使う音・動き方・気分まで決まった「文法」で、曲でも音階でもない
  • ターラはリズムの周期。16拍などの円を回り、1拍目「サム」に全員で着地する
  • 演奏の大半は即興。アーラープで気分を立ち上げ、タブラが入り、加速して終わる
  • ラーガには朝・夜・雨季など時間割があり、背後ではタンプーラが持続音の地面を作る
  • ラヴィ・シャンカールがこの体系を世界の舞台に運び、ロックの聴衆にも扉が開いた

今日やることは一つ。夜のラーガを一つ再生して、タブラが入った瞬間から拍を数えてみてください。16数えて戻った場所がサム。冒頭の「チューニングのような10分」が、待ち遠しい時間に変わります。

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