シャンソンは「3分の映画」——エディット・ピアフと歌の物語

シャンソンって、なんだか敷居が高い。フランス語はわからないし、聴くきっかけもない。
そう感じていませんか。
大丈夫です。シャンソンを楽しむのに、フランス語の知識は要りません。必要なのは、たった一つの見方だけ。シャンソンを「音楽」ではなく「3分の映画」として聴くことです。
一曲の中に、主人公がいて、場面があって、結末がある。その最高の主演女優が、エディット・ピアフでした。
なぜ「3分の映画」なのか——シャンソンは筋書きで聴く歌
シャンソンはフランス語で、単に「歌」という意味です。ただ、日本でシャンソンと呼ばれてきた歌には、はっきりした共通点があります。
物語があること。
たとえばピアフの持ち歌『ミロール』の主人公は、港町の酒場で働く女です。失恋してうなだれる身なりのいい紳士に声をかけ、席に座らせ、励まし、最後には無理やり踊らせてしまう。これで一本、上映時間3分の短編映画です。
歌詞の中で人物が動き、事件が起き、幕が下りる。だからシャンソン歌手に求められるのは、美声よりも演技力です。
この伝統は19世紀末のパリ、モンマルトルの丘のキャバレーで育ちました。庶民の暮らしや貧しさをそのまま歌う「歌の写実主義」が根づいたのです。
その写実主義の申し子のような歌手が、20世紀のパリに現れます。
路上で歌っていた少女——「小さな雀」ピアフの発見
エディット・ピアフは1915年、パリの下町ベルヴィルに生まれました。大道芸人の父を持ち、少女時代から路上で歌って小銭を稼ぐ暮らし。街角の歌姫というと聞こえはいいですが、要するに、その日のパンのための歌です。
転機は1935年。パリの街角で歌う19歳のピアフを、キャバレー経営者ルイ・ルプレが呼び止めました。
つけられた芸名は「ラ・モーム・ピアフ」。パリの俗語で「雀っ子」という意味です。身長150センチに届かない小柄な体を、そのまま名前にされました。
小さな体から出る声は、小さくありませんでした。デビューするとたちまち評判になり、雀はパリの空に飛び立ちます。翌年に恩人ルプレが殺害される事件でどん底も味わいますが、ピアフは歌でよじ登り続けました。
そのピアフの歌を決定づけたのは、成功ではありません。喪失です。
ボクサーと『愛の讃歌』——1949年の墜落事故
ピアフの生涯の恋人と呼ばれるのが、ボクシングの世界王者マルセル・セルダンです。
1949年、ピアフはセルダンを想って書いた歌詞に曲をつけた『愛の讃歌』を、ニューヨークの舞台で発表しました。その年の秋、セルダンは彼女に会うため大西洋を渡る飛行機に乗り、墜落事故で帰らぬ人になります。
以後ピアフが歌う『愛の讃歌』は、ただのラブソングではなくなりました。観客は歌の後ろに、本物の墜落事故を見てしまう。歌と人生の境目が消えた瞬間です。
私は初めてこの経緯を知ってから、『愛の讃歌』を聴く姿勢が変わりました。あの声の張り方は、技術ではなく、覚悟に聞こえます。
歌姫の体は、この頃から悲鳴を上げ始めていました。
オランピア劇場——倒れても歌い、劇場を救った最後の日々

1950年代後半のピアフは、交通事故の後遺症と薬物への依存で、何度も舞台の上で倒れました。医者は引退を勧めます。本人は拒みました。
1960年、ピアフは『水に流して』という新曲に出会います。過去を悔やまない、人生を丸ごとやり直す、と宣言する歌です。翌年、この歌を引っさげて、経営難に沈むパリの名門オランピア劇場の舞台に立ちました。連日の満員御礼が、劇場を破産の淵から救ったと伝えられます。
立っているのがやっとの45歳が、劇場を一つ救う。
これが「3分の映画」の主演女優の底力です。1963年、ピアフは47歳で亡くなりました。パリの葬列には数万人が詰めかけました。親友の詩人ジャン・コクトーが、彼女の死の報せを聞いた同じ日に亡くなったことも、伝説として語り継がれています。
もっとも、シャンソンの主演俳優は彼女ひとりではありません。
ジャック・ブレル——絶頂のまま舞台を降りた男

ベルギー生まれのジャック・ブレルは、実家の段ボール工場を継ぐ道を捨て、1953年にパリへ出ました。代表曲『行かないで』をはじめ、自分で書き、自分で演じる歌で1960年代の頂点に立ちます。
ブレルの舞台は、歌というより一人芝居でした。3分間で汗だくになり、別れる男や酔いどれ水夫を全身で演じ切る。私がブレルの映像を初めて見たときの感想は「歌がうまい」ではなく「この人は俳優だ」でした。
1966年、人気の絶頂で突然コンサート活動をやめると宣言します。理由は、同じ歌を惰性で歌いたくないから。その後はヨットで大西洋を渡り、飛行機の操縦免許を取り、晩年は南太平洋の島で暮らしました。1978年、49歳で死去。墓は画家ゴーギャンの墓のすぐ近くにあります。
このピアフとブレルの歌は、遠い日本にも飛び火しました。
銀座に「巴里」があった——日本のシャンソンと銀巴里
1951年、東京・銀座にシャンソン喫茶「銀巴里」が開店しました。コーヒーを片手に、生の歌手がシャンソンを歌うのを聴く店です。1990年に閉店するまでの約40年、ここが日本のシャンソンの本拠地でした。
10代の美輪明宏が歌手として出発したのも、この店です。舞台と客席の距離は数メートル。歌い手の息づかいまで届く、日本式の「3分の映画館」でした。
日本のシャンソンには、独自の発明があります。訳詞の文化です。越路吹雪が歌った『愛の讃歌』は、作詞家・岩谷時子の日本語詞によって、日本の歌として根を下ろしました。原語のままの映画に字幕をつけるように、物語ごと日本語に移し替えたのです。
「3分の映画」は、吹き替え版でも上映できる。日本のシャンソン史が、それを証明しています。
よくある質問
Q. フランス語がわからなくても本当に楽しめる?
楽しめます。まず曲の背景や歌詞のあらすじを一つ知ってから聴くのがコツです。字幕付きのライブ映像や、日本語の訳詞で歌われた録音から入る手もあります。
Q. シャンソンとカンツォーネは何が違う?
シャンソンはフランス語圏、カンツォーネはイタリア語圏の歌謡を指す日本での呼び名です。物語を演じる傾向が強いシャンソンに対し、カンツォーネは朗々と歌い上げる曲の印象で語られることが多いです。
Q. ピアフの生涯を知れる映画はある?
『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』(2007年)が定番です。主演のマリオン・コティヤールはこの演技でアカデミー主演女優賞を受賞しました。路上時代からオランピアまで、この記事の後に見ると人物が立体的になります。
まとめ
- シャンソンは「3分の映画」。美声より、物語を演じる力の音楽
- ピアフは路上の歌手から出発し、「小さな雀」の名でスターになった
- 『愛の讃歌』と1949年の墜落事故が、歌と人生の境目を消した
- ブレルは一人芝居の歌で頂点に立ち、絶頂のまま舞台を降りた
- 日本には銀巴里と訳詞の文化があり、シャンソンを日本語の歌にした
聴き始めの1曲は『バラ色の人生』を勧めます。ピアフ自身が歌詞を書いた代表曲で、長さは3分足らず。今夜、映画を一本見るつもりで再生してみてください。
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