目を病んだ画家が、最後の秋に描いた黒い猫——菱田春草『黒き猫』と「朦朧体」の36年

ただの猫の絵なのに、なぜか目が離せない。
この掛け軸を初めて見た人の多くが、そう感じるはずです。黄色く色づいた柏の葉の下、太い枝の上に、黒い猫が一匹うずくまっている。こちらを見ているような、見ていないような目。描かれているのは、それだけです。
ところがこの猫には、輪郭線がありません。
日本画は、墨の線で形を描くのが基本でした。その線を捨て、色のにじみだけで猫の毛並みを描いたのが、菱田春草です。線のない絵は、当時「朦朧(もうろう)としている」と笑われました。そして春草は、この猫を描いた翌年、36歳で亡くなっています。最後の数年は、失明の不安を抱えながらの制作でした。
菱田春草は、日本画から「線」を消そうとした
春草は1874年、長野県の飯田に生まれました。上京して東京美術学校(いまの東京藝術大学)に入り、校長の岡倉天心から教えを受けます。天心は、西洋の美術に負けない新しい日本画を作ろうとしていた人です。
1898年、その天心が学校を追われます。春草は、先輩の横山大観や下村観山らとともに学校を辞め、天心が作った在野の美術団体「日本美術院」に加わりました。
ここで春草と大観が取り組んだのが、線を使わない描き方です。
輪郭を墨の線で囲むかわりに、絵の具をぼかし、色と色の境目をにじませる。空気や光、湿った霧のような、線では描けないものを描こうとしました。西洋の絵画が、線ではなく色の面で形を作ることに学んだ試みでもありました。
ところが世間の評判は、散々でした。
ぼんやりしてはっきりしない、まるで幽霊のようだ。批評家たちは、この描き方を「朦朧体」と呼んで笑いました。もとは悪口です。展覧会に出しても売れず、春草たちの暮らしは苦しくなっていきます。
海外で売れた「朦朧体」と、五浦の海辺のアトリエ

風向きを変えたのは、海外でした。
1903年、春草は大観とともにインドへ渡ります。翌年には天心に連れられてアメリカへ向かい、ニューヨークやボストンで展覧会を開きました。日本では「朦朧」と笑われた絵が、こちらでは評判を呼び、よく売れたといいます。光や空気をやわらかく描く絵は、西洋の人々の目には、新しい日本の美しさに見えたのです。
帰国後、日本美術院は茨城県の五浦(いづら)という海辺の村に拠点を移しました。上の写真は、そこで画家たちが並んで制作しているところです。畳の上に紙を広げ、身をかがめて筆を運ぶ。大観、観山、木村武山、そして春草。同じ部屋で、生活をともにしながら描きました。
五浦の海岸の岩の上には、天心が建てた六角形の小さな堂があり、天心はそこで太平洋を眺めながら思索にふけったといいます。都会の画壇から離れた海辺の村で、画家たちは新しい日本画を探り続けました。春草も家族を連れてこの村に移り住んでいます。
『落葉』——見えなくなりかけた目で描いた、武蔵野の林

1908年、春草は目を患います。腎臓の病気からくる網膜の炎症でした。
一時は失明も覚悟するほどで、絵筆を取ることも止められます。春草は治療のため五浦を離れ、東京の代々木に移り住みました。当時の代々木は、雑木林の広がる郊外です。
少し回復すると、彼はその林を描きはじめます。翌1909年の展覧会に出品されたのが、上の『落葉』でした。
まっすぐ立つ木々の幹、地面に散り敷いた枯れ葉、手前の若い杉。遠くの木ほど淡く、霧の中に溶けていきます。背景には何も描かれていないのに、林がどこまでも奥へ続いているように見える。屏風の前に立つと、自分が晩秋の林の中を歩いているような気持ちになる絵です。
『落葉』は、6枚のパネルを折りたたむ屏風が左右2つで一組になった「六曲一双」の大作です。上の写真はその片方。もう片方にも、同じように霧の中に立つ木々と落ち葉が続いています。2つを並べて正面に立つと、視界の端から端まで、霧の林が広がります。
ここでは、かつての「朦朧体」のぼんやりしたぼかしは影をひそめています。木の幹や葉は細かく描きこまれ、霧の部分だけが大きな余白として残されている。くっきり描くところと、何も描かないところ。その対比で、空気そのものを描いています。
『落葉』は展覧会で高く評価され、春草は「朦朧」と笑われた画家から、時代を代表する日本画家になりました。
『黒き猫』の毛並みに輪郭線はない
翌1910年の秋、春草は『黒き猫』を描きます。
当初は別の作品を出品する予定でしたが、制作が間に合わず、わずか5日ほどでこの絵を描き上げた、という話が伝わっています。
絵の前に立ったら、まず猫の背中の線を探してみてほしい。
見つからないはずです。猫の体は、墨をにじませ、何度も重ねて塗った黒の面だけでできています。ふわりと逆立った毛の先は、背景の絹の地にそのまま溶けこんでいる。手で触れたら柔らかそうな毛並みは、線を捨てたからこそ生まれました。朦朧体の技術が、ここで一つの完成に達しています。
一方で、頭上の柏の葉は、くっきりと平らに塗り分けられ、葉脈が一本ずつ金の線で引かれています。
柔らかい猫と、硬い葉。にじみと、線。正反対の二つが、一枚の中に同居している。春草がそれまでの十数年で試してきたことが、この縦長の画面に全部入っている、と言ってもいいほどです。
36歳の死と、大観が惜しんだ才能

『黒き猫』を描いた翌年の1911年、目の病はふたたび悪化し、春草は36歳で亡くなりました。
上の『賢首菩薩』は、目を患う前、1907年に描かれた作品です。僧の衣をよく見ると、細かな色の点を並べて描かれているのがわかります。線を使わずに形を作る方法を、春草は最後まで探し続けていました。
兄弟子の横山大観は、春草の死を長く惜しみ、その才能をたたえ続けたと伝えられます。大観はその後、日本画壇の中心として90歳近くまで描き続けました。春草に残された時間は、その半分にも届きませんでした。
よくある質問
Q. 『黒き猫』と『落葉』の実物はどこで見られますか?
いずれも東京・目白台の永青文庫が所蔵する重要文化財です。展示される時期は限られているので、公式サイトで最新の情報を確認してください。
Q. 春草は猫の絵をほかにも描いていますか?
はい。晩年の春草は猫を好んで描き、白い猫や黒い猫を題材にした作品がいくつも残っています。『黒き猫』は、その中でもっともよく知られた一点です。
Q. 「朦朧体」の絵は、ほかに誰が描いていますか?
春草とともに取り組んだ横山大観が代表的です。同じ時期に描かれた大観の作品を、美術館や画集で春草の作品と見比べると、同じ試みから出発した二人の違いがよくわかります。
まとめ:線を捨てた画家の、最後の秋
- 菱田春草は、岡倉天心の下で横山大観らと新しい日本画を目指した
- 輪郭線を使わずぼかしで描く方法は、「朦朧体」と悪口を言われた
- 海外で評価されたのち、目の病と闘いながら『落葉』を描き、高い評価を得た
- 『黒き猫』では、線のない猫の毛並みと、線のくっきりした柏の葉が同居している
- 1911年、36歳で亡くなった
冒頭の猫の目に、もう一度戻ってください。あの目がどこを見ているのかわからないのは、猫の輪郭がどこにもないからです。にじんだ毛並みの奥から、線を捨てた画家が最後の秋に見た世界が、こちらを見返しています。
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