長谷川等伯『松林図屏風』——墨一色の霧に、何が描かれていないのか

東京国立博物館の、少し暗い部屋。
大きな屏風が一双、向かい合わずに並んでいます。描かれているのは、松。それだけです。色はなく、墨だけ。しかも松の半分は霧に溶けて、あるのかないのかわからない。近づくと、松葉はぼさぼさの太い筆で、ほとんど殴り書きのように描かれています。
それでも人は、この前で足を止めます。
私も初めて見たとき、何も描かれていない部分ばかり見ていました。松と松のあいだの、紙の白。そこに、朝の冷たい湿った空気が本当にある気がした。描かれていないものを見せる絵。日本の水墨画の最高峰と呼ばれるこの屏風は、400年以上前に、一人の絵師がおそらく一気に描いたものです。
長谷川等伯。能登の絵仏師から、京都で天下一の狩野派に挑んだ男でした。
能登の絵仏師が、33歳で京都に出るまで——等伯はどこから来たのか
等伯は1539年、能登の七尾(今の石川県)に生まれました。
染物屋の家に育ち、仏画を描く絵師として出発します。信春と名乗っていたころの作品には、地元の寺に伝わる仏画や肖像画が残っています。細かく、丁寧で、色が鮮やか。後年の霧の松からは想像しにくい絵です。
30代で、妻子とともに京都へ出ます。
当時の京都の画壇は、狩野永徳を頂点とする狩野派が独占していました。金地に大きな松や獅子を描く、豪快で華やかな絵。信長や秀吉といった天下人の御用を一手に引き受け、地方から来た無名の絵師が割り込む隙間はほとんどありません。
等伯はその隙間を、京都の禅寺から見つけました。
大徳寺に出入りし、千利休ら茶人と親しくなります。禅寺には、中国から渡ってきた古い水墨画が伝わっていました。特に牧谿という中国の僧の絵。ぼんやりとした墨の濃淡で猿や鳥を描く、その絵に等伯は入れ込みます。狩野派が金で描く時代に、等伯は墨を学び直していました。
後年、等伯が語った絵の話を、京都・本法寺の僧、日通が書き留めた『等伯画説』という記録が残っています。雪舟や牧谿への傾倒、古い絵の見どころ。日本で最も古い部類の絵画論で、地方から出てきた絵師がどれほど古典を研究していたかがわかります。
そして50代で、天下人からの仕事が来ます。
秀吉の依頼と、26歳で死んだ息子——『楓図』と『桜図』

1591年、豊臣秀吉は幼くして亡くなった息子・鶴松のために、京都に祥雲寺という寺を建てました。
その障壁画を、等伯の一門が任されます。狩野派を差し置いての大抜擢でした。等伯が描いたのが『楓図』。金地に大きな楓の幹をうねらせ、足元に秋の草花を散らした、色彩の絵です。霧の松とは正反対の、あふれるような画面。ただし狩野派の豪快さとは少し違います。幹は太く画面を横切りますが、足元の草花は一つ一つ細かく、色は静か。金の画面で狩野派に答えを出そうとした跡が見えます。
同じ寺の『桜図』を描いたのが、長男の久蔵でした。
白い胡粉を盛り上げて描いた桜の花びらは、今も立体的に浮かび上がります。父を超えると期待された腕前。ところが久蔵は、この絵を描いた翌年に亡くなります。26歳でした。死因ははっきりせず、狩野派との争いの中で殺されたという噂まで伝えられます。
跡継ぎを失った等伯は、50代半ば。
『松林図屏風』が描かれたのは、この前後だと考えられています。制作年を示す記録はありません。ただ、息子を失った絵師が、色も金も捨てて墨だけで霧の松を描いたという読み方を、多くの人がしてきました。証明はできません。ただ、そう見ると、あの霧は違って見えます。
紙のつぎ目が合わない——『松林図屏風』は下絵だったのか

この屏風には、不思議な点がいくつもあります。
まず紙です。六曲一双、つまり六つ折りの屏風が二つ。高さは約1.5メートル。使われている紙は、当時の正式な障壁画に使う上等なものではなく、ところどころつぎ目がずれています。
次に印です。画面に押された等伯の印は、他の作品と押し方が異なります。
さらに筆です。松葉は藁を束ねたような太い筆で、勢いよく叩きつけるように描かれています。仕上げの絵にしては荒く、下描きにしては完成している。
こうしたことから、この屏風は本来「下絵」だった、あるいは別の大きな障壁画のための習作を、後に屏風に仕立て直したものだという説が有力です。国宝の水墨画が、もとは清書ではなかった。私はこの説を、この絵をいちばん正しく説明していると思います。清書だったら、松の間の空気はここまで自由に流れなかったはずです。
では、その霧の中に、等伯は何を描かなかったのか。
描かれていないもの——霧の中の松は、何を見せているのか
『松林図屏風』は、空白の絵です。
画面の半分以上が、何も描かれていない紙の白。手前の松は濃い墨で、奥の松は薄い墨で、いちばん奥の松はほとんど消えかけています。遠くに、うっすらと山の稜線。それだけです。
見えているのは松ではなく、松と松のあいだの距離です。
濃い墨と薄い墨のあいだに、霧の厚みが生まれる。何も描いていない紙が、湿った空気として目に入る。等伯が学んだ牧谿の水墨画のやり方が、日本の松林の上で、ここまで大きな画面になったことはありません。
能登の海辺の松林を思い出して描いた、と言われることもあります。故郷の風景。失った息子。天下一の狩野派への対抗心。何を読み込んでも屏風は答えません。ただ霧が動いているだけです。
一つだけ、見方のこつがあります。屏風は本来、床に置いて座って見るものです。立って見下ろすのではなく、畳に座った目の高さで見ると、霧の奥行きが正面に来る。博物館で座るのは難しいですが、少し腰を落として見てみてください。
等伯は1610年、72歳で亡くなりました。徳川家康に呼ばれて江戸へ下った直後のことです。自らを「雪舟五代」と称し、日本の水墨画の系譜を継ぐ者だと名乗っていました。
よくある質問
Q. 『松林図屏風』はいつ見られますか?
東京国立博物館の所蔵で、常時展示はされていません。例年、年始の時期に展示されることが多いですが、展示予定は変わるため公式サイトで最新情報を確認してください。
Q. 『楓図』『桜図』はどこにありますか?
京都の智積院に伝わり、国宝に指定されています。収蔵庫で展示されているので、拝観時間などは寺の公式サイトで確認してください。
Q. 狩野派と等伯はどんな関係でしたか?
等伯は狩野派に対抗する形で京都の画壇に食い込みました。秀吉の御用をめぐって争ったとされ、狩野永徳の死後は等伯の一門が大きな仕事を得ています。
まとめ:白い紙に、霧が見える
- 等伯は能登の絵仏師から京都に出て、禅寺で中国の水墨画を学び、狩野派に対抗した
- 秀吉の依頼で『楓図』を描き、長男・久蔵は『桜図』を描いた翌年に26歳で亡くなった
- 『松林図屏風』は制作年不明。紙や印や筆づかいから、下絵や習作だったという説が有力
- 画面の半分以上が空白。濃淡の差が霧の厚みになり、描かれていない空気を見せる
次にこの屏風の前に立ったら、松ではなく、松と松のあいだの白を見てください。何も描かれていないはずの場所に、朝の湿った空気が見えたら、それが等伯の描いたものです。
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