69日で高さ8メートルの仁王を2体——運慶・快慶と東大寺南大門『金剛力士像』の見上げ方

東大寺南大門『金剛力士像』阿形(あぎょう)。口を開いた像で、門をくぐって左手に立つ(1915年刊行の写真)
東大寺南大門『金剛力士像』阿形(あぎょう)。口を開いた像で、門をくぐって左手に立つ(1915年刊行の写真)

69日。

奈良・東大寺の南大門に立つ2体の金剛力士像が、彫り始めから完成までにかかった日数です。高さはどちらも8メートルを超えます。ビルの3階に届く木の像を、2体まとめて、2か月と少しで仕上げた。

修学旅行で見上げた記憶のある人も多いはずです。ただ、あの像が「どうやってその速さで作られたか」まで知っている人は、あまりいません。

答えは、一人の天才の腕力ではなく、鎌倉時代の仏師たちの「段取り」にありました。

焼け落ちた奈良を、20年がかりで建て直した

1180年の暮れ、東大寺は炎に包まれました。

源平の争いのなかで、平家の軍勢が奈良の寺々に火を放ったのです。大仏殿は焼け落ち、大仏の頭も溶けて落ちたと伝えられます。奈良時代から続いた都の大寺院が、一晩で焼け野原になりました。

再建の責任者に選ばれたのは、重源(ちょうげん)という60歳を過ぎた僧です。中国の宋に渡った経験を持つ重源は、全国を回って寄付を集め、大陸の新しい建築の技術を取り入れて、大仏と大仏殿をよみがえらせていきます。

南大門が建ったのは、焼失からおよそ20年後。門ができれば、その両脇には門を守る仁王が要る。ここで呼ばれたのが、奈良の仏師集団「慶派(けいは)」でした。

東大寺南大門。2体の金剛力士像は、この門の柱のあいだに立っている
東大寺南大門。2体の金剛力士像は、この門の柱のあいだに立っている

門そのものも、少し変わっています。

重源が宋から持ち帰った「大仏様(だいぶつよう)」と呼ばれる建て方で、天井を張っていません。門の下に立って上を見ると、太い柱を何本もの横木が貫き、屋根を支える木組みがそのまま頭上に広がっている。飾りを削り、骨組みの力強さを見せる造りです。

仁王が立つのは、その骨組みの真下。像と門は、同じ「むき出しの力」で設計されていました。

1203年の夏から秋へ。4人の大仏師と、大勢の弟子

制作が始まったのは1203年の夏。完成は同じ年の秋です。

像の中心に立ったのは、運慶(うんけい)と快慶(かいけい)。どちらも慶派の仏師で、運慶は当時の慶派を率いる立場にありました。ほかに運慶の息子の湛慶(たんけい)、一門の定覚(じょうかく)が加わり、4人の「大仏師」のもとで、大勢の弟子たちが一斉に手を動かしたと考えられています。

速さの秘密は、寄木造(よせぎづくり)という作り方です。

1本の巨木から彫り出すのではなく、像をいくつもの部材に分け、それぞれを別々に彫ってから組み上げる。頭、胴、腕、衣のすそ。部材ごとに担当を割り振れば、何十人もが同時に作業できます。8メートルの像を一木で彫れる木は、そもそも日本にほとんどありません。

工房というより、現場の大工仕事に近い光景だったはずです。木屑の舞う作業場で、設計図を頭に入れた親方が、あちこちの部材を見て回る。その親方が誰だったのか、という問いが、このあと800年近く議論されることになります。

阿形と吽形、どちらを誰が彫ったのか

2体はよく似ていますが、口が違います。

口を大きく開けているのが阿形(あぎょう)、口を固く結んでいるのが吽形(うんぎょう)。「あ」と「うん」で、物事の始まりと終わりを表すとされます。「あうんの呼吸」の、あの「あうん」です。

手の形も違います。阿形は長い金剛杵(こんごうしょ)という武器を縦に握り、もう片方の手のひらを大きく開いて突き出している。吽形は片腕を高く振り上げ、反対の手に金剛杵を下げて、腰をぐっと落としている。片方が「止まれ」と押しとどめ、もう片方が今にも打ちかかる。2体で一つの動きになっています。

長いあいだ、研究者たちは像の顔つきや体の線から、作者を推理してきました。荒々しい吽形は運慶らしい、整った阿形は快慶らしい。そんな見立てが、教科書にも載っていました。

決め手が出てきたのは、1988年から5年をかけた解体修理のときです。

像をばらしたところ、阿形の内部から、大仏師として運慶と快慶の名を記した墨書きが見つかりました。吽形の中には、定覚と湛慶の名。納められていたお経も出てきました。

つまり、阿形は運慶と快慶、吽形は定覚と湛慶が中心になって彫った。全体の指揮をとったのは運慶だろう、というのが今の有力な見方です。「どちらが運慶か」という問いの立て方そのものが、少しずれていたのかもしれません。

吽形(うんぎょう)。口を閉じ、腰を落として、阿形と向かい合っている(1915年刊行の写真)
吽形(うんぎょう)。口を閉じ、腰を落として、阿形と向かい合っている(1915年刊行の写真)

正面から見るな。2体は向かい合っている

ここからは、現地で見るときの話です。

普通の寺の仁王門では、2体の仁王は参拝者のほうを向いて、正面に並んでいます。ところが南大門の2体は、門の通路をはさんで、互いに向かい合うように立っている。正面からは、横顔しか見えません。

並び方も逆です。一般的な仁王門は、向かって右に阿形、左に吽形。南大門では、向かって左が阿形、右が吽形になっています。

なぜそう置いたのかは、はっきりわかっていません。

確かなのは、この像が「真下から見上げる」ことを計算して作られている点です。頭は体のわりに大きく、胸の筋肉は前に張り出している。写真で正面から見ると少しいびつに感じるのに、門の下に立って見上げると、ちょうど均整がとれて見える。

私が初めてこの門をくぐったとき、首が痛くなるまで見上げていました。腕に浮いた血管のうねりが、下からだと本物の筋のように動いて見えたのを覚えています。金網越しなのが残念でした。

運慶は、この2体のあと何を彫ったのか

南大門のあと、運慶はさらに大きな仕事を任されていきます。

なかでも名高いのが、奈良・興福寺の北円堂に残る『無著(むじゃく)菩薩立像』と『世親(せしん)菩薩立像』です。インドの高僧の兄弟を、等身大より大きな姿で彫ったもの。仁王の怒りの顔とは正反対の、静かで、少し寂しそうな老僧の顔をしています。

運慶ほか『無著菩薩立像』鎌倉時代、興福寺北円堂
運慶ほか『無著菩薩立像』鎌倉時代、興福寺北円堂

同じ仏師が、目をむいて吠える巨人と、遠くを見つめる老人の両方を彫った。並べてみると、南大門の仁王の「怒り」も、ただの誇張ではなく、狙って作られた表情なのだとわかります。

運慶の像は、まず人間の体があり、その上に仏の役割が乗っている。だから800年たっても、生きた体に見えるのです。

よくある質問

Q. 南大門の金剛力士像は国宝ですか?
はい。2体とも国宝に指定されています。南大門の建物も国宝です。像は金網の内側にあるので、少し離れた位置から見上げる形になります。

Q. 運慶と快慶は、どう違うのですか?
運慶は力強く動きのある像、快慶は端正で穏やかな像を得意としたといわれます。快慶の端正な作風は、のちに「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれ、多くの仏像の手本になりました。

Q. なぜ2体は向かい合っているのですか?
はっきりした理由は伝わっていません。門の構造や、参拝者が通路を歩きながら見上げる視線に合わせたという見方があります。

まとめ

  • 東大寺南大門の金剛力士像は、1203年に69日間で完成した、高さ8メートルを超える2体の木像
  • 部材を分けて彫る寄木造で、運慶・快慶・定覚・湛慶と大勢の弟子が同時に作業した
  • 1988年からの解体修理で、阿形から運慶と快慶、吽形から定覚と湛慶の名が見つかった
  • 2体は通路をはさんで向かい合い、真下から見上げたときに均整がとれるよう作られている

正面から写真を撮るための像ではありません。門の下に立ち、首を反らせて見上げたときに、初めて完成する像です。次に奈良へ行くなら、阿形の真下で一度立ち止まってください。

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