ドヴォルザーク『新世界より』とは?「家路」のメロディが生まれたアメリカの3年間と、4つの楽章の聴きどころ

夕方5時。町のスピーカーから、ゆっくりしたメロディが流れてくる。
小学校の下校の放送。キャンプファイヤーの終わり。閉店まぎわの店内。日本で育った人なら、あの旋律を聞くだけで「帰らなきゃ」という気持ちになるはずです。『家路』、あるいは『遠き山に日は落ちて』という題で覚えている人も多いでしょう。
あれは日本の歌ではありません。アメリカ民謡でもありません。
チェコの作曲家が、ニューヨークで、故郷に帰りたくてたまらない気持ちで書いた交響曲の一部です。
肉屋の息子ドヴォルザークに、年俸25倍のオファーが届いた
アントニン・ドヴォルザークは1841年、プラハの北にある小さな村に生まれました。
父は肉屋と宿屋を営んでいて、長男の彼も家業を継ぐはずでした。音楽の才能を見抜いた周囲の説得で、プラハのオルガン学校へ進みます。卒業後は劇場のオーケストラでヴィオラを弾きながら、売れない曲を書きつづける日々。
30代半ば、転機が来ます。
奨学金の審査員だった大作曲家ブラームスが、彼の楽譜に目をとめ、自分の出版社に紹介してくれたのです。民族舞曲をもとにした『スラヴ舞曲集』が大ヒット。50歳になるころには、ヨーロッパで指折りの作曲家になっていました。
そこへ1891年、アメリカから手紙が届きます。
差出人は、ニューヨークの富豪の妻ジャネット・サーバー夫人。自分が創立したナショナル音楽院の院長になってほしい。年俸は1万5千ドル。プラハ音楽院の教授としての給料の、およそ25倍でした。
当時のアメリカには、自前のクラシック音楽がまだありません。演奏されるのはヨーロッパの曲ばかり。夫人の願いは、自分の国の民謡から芸術音楽を作り上げた実績のあるこの作曲家に、「アメリカの音楽」の作り方を教えてもらうことでした。
1892年9月、51歳のドヴォルザークは、妻と子どもを連れて大西洋を渡ります。
黒人霊歌を歌ってくれた学生と、「アメリカ音楽の未来」
サーバー夫人の音楽院は、当時としては異例の学校でした。女性も、黒人の学生も受け入れ、貧しい学生は授業料が免除されたのです。
学生の一人に、ハリー・バーリーという黒人の青年がいました。
バリトンの美しい声の持ち主で、学費のために校内の雑用もしていました。ドヴォルザークは彼を自宅に招き、祖父から教わったという黒人霊歌を、何度も歌ってもらいます。奴隷として連れてこられた人々が、農園で歌い継いできた祈りの歌です。
1893年5月、ドヴォルザークは新聞の取材に答えて、こう断言しました。
アメリカの音楽の未来は、黒人のメロディの上に築かれなければならない。
白人の音楽関係者の多くは、反発するか、無視しました。ただ、その後のアメリカでブルース、ジャズ、ロックが生まれていった歴史を知っている私たちから見ると、この予言は怖いくらい当たっています。
1893年12月16日、カーネギー・ホールは楽章ごとに総立ちになった

その発言と同じ1893年の前半、彼は1曲の交響曲を書き上げます。
交響曲第9番ホ短調。表紙には、チェコ語で「新世界より」と書きこみました。新大陸アメリカから、故郷へ送る便り、という意味です。

初演は12月16日、開場して2年半のカーネギー・ホール。演奏はニューヨーク・フィルハーモニックです。
第2楽章が終わると、客席から拍手と歓声がわき起こって止まらなくなりました。ボックス席にいたドヴォルザークは、立ち上がってお辞儀をするしかなかった。楽章が終わるたびにそれが繰り返されたと、本人が手紙に書いています。「まるで王様のように、ボックス席からお礼をしなければならなかった」。
「家路」は民謡の引用ではない。ドヴォルザーク自身のメロディ
あの第2楽章のメロディは、黒人霊歌の編曲だと思われがちです。
違います。ドヴォルザークのオリジナルです。
本人が説明を残しています。アメリカの旋律をそのまま使ったことは一度もない。黒人霊歌や先住民の音楽の「精神」を取り入れて、自分で主題を書いたのだ、と。ドレミソラの5つの音を中心にした、素朴な音の並び。それは黒人霊歌にも、彼の故郷ボヘミアの民謡にも、そして日本のわらべ歌にも共通する特徴でした。日本人が「懐かしい」と感じるのは、偶然ではありません。
この旋律を吹くのは、イングリッシュ・ホルン。オーボエより少し低く、くぐもった音のする木管楽器です。
歌詞がついたのは、作曲者の死後のこと。1922年、教え子の一人がこのメロディに英語の詞をつけ、『ゴーイン・ホーム』として出版しました。あまりにも自然だったので、今度は「交響曲のほうが、昔からある霊歌を引用したのだ」という誤解が広まります。順番が逆です。
機関車の番号を暗記していた作曲家の、ニューヨークでのホームシック
少し脇道にそれます。ドヴォルザークは、筋金入りの鉄道好きでした。
プラハでは毎日のように駅へ通い、時刻表も、機関車の製造番号も、運転士の名前も覚えていたといいます。「機関車を発明できたなら、私の交響曲をすべて差し出してもいい」という言葉が伝わっています。第4楽章の冒頭、低い弦が2つの音をゆっくり、だんだん速く繰り返すところは、蒸気機関車の発車に聞こえる、とファンのあいだでよく語られます。
ニューヨークの駅は、乗客以外ホームに入れませんでした。
しかたなく彼は港へ通い、大西洋航路の蒸気船を眺めて過ごします。船の行き先は、ヨーロッパです。
1893年の夏は、アイオワ州のスピルヴィルという村で過ごしました。チェコからの移民が作った村で、教会でも酒場でもチェコ語が通じます。ここでの彼は別人のように上機嫌で、毎朝教会のオルガンを弾き、弦楽四重奏曲『アメリカ』を数週間で書き上げました。
私は『新世界より』を聴くと、新大陸への驚きより、帰りたい気持ちのほうを強く感じます。題名は「新世界」ではなく、「新世界より」。宛先は、最初から故郷でした。
1895年、ドヴォルザークは契約を打ち切ってプラハへ帰ります。アメリカ滞在は、3年足らずでした。
よくある質問
Q. 『新世界より』は全部で何分くらいですか?
4つの楽章で、およそ40分です。
Q. シンバルが1回しか鳴らないというのは本当ですか?
本当です。全曲を通して、シンバルの出番は第4楽章の途中の1回だけ。しかも派手な一撃ではなく、控えめな一打です。演奏会で打楽器奏者に注目していると見つけられます。
まとめ:『新世界より』を初めて聴くなら、この順番で
- ドヴォルザークは1892年、破格の年俸でニューヨークの音楽院の院長に招かれた
- 黒人学生ハリー・バーリーから霊歌を学び、「アメリカ音楽の未来は黒人のメロディにある」と語った
- 『新世界より』は1893年12月、カーネギー・ホールで初演され、楽章ごとに喝采を浴びた
- 「家路」の旋律は民謡の引用ではなく、ドヴォルザークのオリジナル。歌詞は死後に教え子がつけた
- 曲の底にあるのは、鉄道好きの作曲家が港で船を眺めていた、ホームシックの気持ち
40分を通して聴く前に、おすすめの順番があります。
- 第2楽章(約12分):「家路」の楽章。イングリッシュ・ホルンの独奏は開始1分ほどで始まります
- 第4楽章(約11分):機関車の発車のような出だしから、金管の勇ましい主題へ。終盤には、前の3つの楽章のメロディが次々に戻ってきます
- 第1楽章から通して:第2楽章の旋律が、最後にどんな形で帰ってくるかを確かめてください
夕方5時のチャイムが鳴ったら、思い出してください。あれは130年前、ニューヨークの港で船を見ていた人の「帰りたい」です。
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