22歳の夏、房総の漁村で描いた一枚——青木繁『海の幸』と、28歳で燃え尽きた画家

青木繁『海の幸』1904年、石橋財団アーティゾン美術館。重要文化財
青木繁『海の幸』1904年、石橋財団アーティゾン美術館。重要文化財

22歳。青木繁が『海の幸』を描いたときの年齢です。

美術学校を出たばかりの青年が、千葉の房総半島の先にある漁村で、ひと夏のうちに描き上げた。縦70センチ、横180センチほどの横長の画面です。

この絵は、のちに重要文化財に指定されます。日本の洋画のなかでも、とりわけ早い時期のことでした。

ところが、描いた本人は28歳で世を去ります。最後の数年は、絵を発表しても認められず、九州を放浪する日々でした。

22歳の夏に頂点があって、そこから転がり落ちていく。青木繁の生涯は、この1枚を境に、きれいに二つに分かれています。

布良の浜を、裸の男たちが行く

まず、絵を見てください。

浜辺を、10人ほどの裸の男たちが、右から左へ列をなして歩いていく。肩に担いだ長い棒には、自分の背丈ほどもある大きな魚がぶら下がっています。サメだといわれます。背景には、青い海の帯。

男たちの体は赤茶色に塗られ、輪郭は荒々しい線で何度も引き直されています。画面のあちこちに、下描きの線や、四角く区切った升目の跡まで残っている。

完成した絵というより、描きかけのように見えます。

けれど、その粗さが、列の勢いになっている。男たちは踏みしめるように一歩ずつ進み、画面の外へ出ていこうとしています。

描かれた場所は、千葉県南部の館山にある漁村、布良(めら)。1904年の夏、東京美術学校(いまの東京藝術大学)を卒業したばかりの青木は、仲間たちとこの村に滞在していました。

一行は4人。同郷の画家・坂本繁二郎、美術学校の仲間の森田恒友、そして青木の恋人・福田たね。漁師の家に部屋を借り、1か月半ほど、海で泳ぎ、浜を歩き、絵を描いて過ごしたといわれます。

お金はほとんどありませんでした。それでも、青木の生涯でいちばん明るい夏だったと、多くの評伝が書いています。

青木繁は、この光景を見ていない

ここで意外な話があります。

青木本人は、この大漁の光景を、自分の目で見ていなかったとされています。

一緒に布良へ来ていた画家仲間の坂本繁二郎が、浜で漁師たちが大きな獲物を運び上げる場面に出くわした。その話を宿で聞いた青木が、興奮して描き始めたのが『海の幸』だった、と伝えられます。

見ていないからこそ、描けた絵なのかもしれません。

実際の漁師の作業をそのまま写したなら、もっと日常的な絵になったはずです。青木が描いたのは、神話の英雄たちの行進のような、遠い昔の祭りのような光景でした。裸の男たちは、明治の漁師というより、古代の海の民に見えます。

青木は『古事記』などの日本神話に強くひかれていた画家でした。友人の話した漁の光景が、彼の頭の中で、神話の時代の場面に変わったのだと思います。

列の中に一人だけ、こちらを見る白い顔

青木繁『布良海岸』1904年。『海の幸』と同じ夏に、布良の荒い海を描いた
青木繁『布良海岸』1904年。『海の幸』と同じ夏に、布良の荒い海を描いた

『海の幸』には、もう一つ有名な細部があります。

列の中ほど、白い魚の向こうに、一人だけ色白の顔が描かれています。ほかの男たちが前を向いて歩くなか、その顔だけが、正面からこちらを見つめている。

この顔のモデルは、布良に同行した福田たねだといわれます。青木の恋人で、のちに青木の子を産む女性です。

私はこの絵を見るたびに、まずこの顔を探してしまいます。荒々しい男たちの行列の中で、そこだけ時間が止まっている。画家が絵の中にこっそり置いた、私的な目印のように見えるからです。

もちろん、本当に福田たねなのか、青木が何を意図したのかは、本人の言葉が残っていない以上わかりません。ただ、画面のどこから見始めても、最後はこの視線に引き戻されます。

白馬会展で喝采、そして3年後の落選

1904年の秋、『海の幸』は東京の白馬会の展覧会に出品されました。白馬会は、黒田清輝らが率いた洋画の団体です。

絵は評判を呼び、若い画家や詩人たちのあいだで、青木の名前は一躍知られるようになります。

青木繁『わだつみのいろこの宮』1907年、石橋財団アーティゾン美術館。重要文化財
青木繁『わだつみのいろこの宮』1907年、石橋財団アーティゾン美術館。重要文化財

3年後の1907年、青木は勝負をかけた大作を発表します。『わだつみのいろこの宮』。

『古事記』の一場面で、なくした釣り針を探して海の底の宮殿へやってきた山幸彦が、泉のそばの木の上にいる。そこへ水を汲みにきた海の神の娘、豊玉姫と侍女が、彼を見上げています。

縦に長い画面に、海の底の青と、女性たちの衣の赤と白。『海の幸』とはまったく違う、細やかで装飾的な絵でした。

ところが、東京の博覧会に出したこの絵の評価は、3等の末席。青木は深く傷つきます。今では『海の幸』と並んで重要文化財になっている絵です。

ただ、この絵に目を留めた人もいました。夏目漱石です。漱石は小説『それから』の中で、主人公に、展覧会で見た青木という画家の海の底の絵を思い出させています。審査員には認められなくても、見る人の記憶には残っていました。

同じ年、父の死の知らせを受けて、青木は故郷の福岡県久留米へ帰りました。

28歳、福岡の病院で

故郷に戻った青木を待っていたのは、家の借金と、家族との衝突でした。

やがて家を飛び出し、九州各地を転々としながら、ときどき絵を描いて暮らすようになります。中央の画壇に戻ることは、ついにありませんでした。

1911年、福岡の病院で、28歳で亡くなります。結核でした。

福田たねとのあいだに生まれた息子は、のちに尺八奏者・作曲家の福田蘭童になりました。ラジオドラマ『笛吹童子』の音楽で知られる人です。父の顔をほとんど知らずに育った子が、絵ではなく音の道に進んだことになります。

その後、青木の絵を集めて世に伝えたのが、かつての仲間、坂本繁二郎でした。同じ久留米の出身で、子どものころからの友人であり、ライバルでもあった人です。

坂本の勧めを受けて青木の作品を買い集めたのが、同じ久留米出身の実業家、石橋正二郎だったと伝えられます。のちにタイヤメーカーのブリヂストンを興し、美術館を開いた人物です。『海の幸』と『わだつみのいろこの宮』は、今もその流れをくむアーティゾン美術館に収められています。

よくある質問

Q. 『海の幸』はどこで見られますか?
東京・京橋の石橋財団アーティゾン美術館が所蔵しています。常に展示されているわけではないので、展示予定は公式サイトで確認してください。

Q. 坂本繁二郎はどんな画家ですか?
青木と同じ1882年に久留米で生まれた洋画家です。青木の死後も長く生き、晩年まで九州で馬や能面、月などを静かな色で描き続けました。激しく燃えた青木とは、正反対の歩み方をした画家です。

Q. 布良には今も何か残っていますか?
青木たちが滞在した漁師の家が、千葉県館山市に残されています。公開の状況は、館山市などの情報で確認してください。

まとめ

  • 『海の幸』は1904年夏、22歳の青木繁が千葉県館山の布良で描いた
  • 青木自身は大漁の光景を見ておらず、坂本繁二郎の話から描いたとされる
  • 列の中に一人だけこちらを見る顔があり、恋人の福田たねがモデルといわれる
  • 1907年の『わだつみのいろこの宮』は低い評価に終わり、青木は28歳で亡くなった

『海の幸』の前に立ったら、まず白い顔を探してみてください。見つけたら、そこから視線を左へ、列の先頭まで歩かせてみる。男たちが向かう先には、何も描かれていません。22歳の画家にも、その先はまだ見えていませんでした。

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