なぜニルヴァーナは売れたことに苦しんだのか——グランジの矛盾

売れたい。ふつうのバンドはそう願います。
ニルヴァーナは逆でした。売れてから、苦しんだ。史上最大級の成功を手にした3人組が、成功そのものを重荷として引きずり続けました。
なぜか。
答えを探すには、1980年代の終わり、アメリカ北西の隅にある雨の街まで戻る必要があります。
雨と退屈の街シアトル——グランジが生まれた地下シーン
当時のシアトルは、音楽産業の地図に載っていない街でした。
ロサンゼルスからもニューヨークからも遠い。有名になる回路がない。おまけに一年の半分は空が灰色で、家にこもって楽器を鳴らすくらいしかやることがない。だから若者は、売れるためではなく、退屈しのぎと友達のためにバンドを組みました。ガレージと小さなクラブ。観客は数十人。
音は、パンクの速さとブラック・サバス直系の重さの、雑な混合でした。うまく弾こうとしない。ノイズも歪みもそのまま。この薄汚れた質感を指して、グランジ(grunge=垢、汚れ)という言葉が使われ始めます。メルヴィンズ、グリーン・リヴァー、サウンドガーデン、マッドハニー。後の主役たちは、みんなこの泥の中にいました。

サブ・ポップ——「売れない」が誇りだったレーベル
この泥をすくい上げたのが、地元レーベルのサブ・ポップです。
大手にできないことだけをやる。地元のバンドを、ざらついた白黒のライブ写真と限定盤シングルで世に出す。会費制の「シングルズ・クラブ」では、限定プレスの7インチ盤が会員の家に直接届きました。ニルヴァーナのデビュー作『ブリーチ』の録音費用は約600ドルだったと伝えられます。
インディーの世界には不文律がありました。大手と契約して音を丸めるのは「魂を売る」行為だという掟です。狭い世界の、狭いがゆえに濃い誇り。
ニルヴァーナはやがて、自分からその掟の外へ踏み出します。
『ネヴァーマインド』がマイケル・ジャクソンを抜いた日
1991年9月、大手ゲフィンから2作目『ネヴァーマインド』が出ます。
レコード会社の読みは控えめで、25万枚売れれば成功という水準だったと伝えられます。ふたを開けると、先行曲「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」のMVがMTVで火を噴き、店から在庫が消えました。
1992年1月。『ネヴァーマインド』は全米アルバムチャートで、マイケル・ジャクソンの『デンジャラス』を抜いて1位に立ちます。
地下室の音楽が、キング・オブ・ポップの上に座った。地殻変動でした。シアトルには大手のスカウトが押し寄せ、パール・ジャムの『テン』も数百万枚規模のヒットに。フランネルシャツの若者が、テレビの主役になりました。

普通なら、ここがサクセスストーリーの頂点です。
なぜカート・コバーンは成功を憎んだのか
カート・コバーンの苦しみは、ぜいたくな悩みに見えて、筋が通っています。
出発点は「魂を売るな」の世界でした。その掟を破って大手と組み、世界一売れた。かつての仲間の基準では、自分は裏切り者です。しかも客席には、歌の中で批判したような、弱い者をいじめて笑うタイプの客まで増えていく。自分の音楽が、自分の敵に消費される。イギリスの歌番組に出たときは、口パクの指示に反発して、わざと別人のような低い声で歌ってみせました。
ニルヴァーナの次の一手は、逆走でした。1993年の『イン・ユーテロ』は、商業向けの磨きをあえて捨てた、ざらざらの音で作られます。ラジオ向きの曲には「レディオ・フレンドリー・ユニット・シフター(ラジオで売れる商品)」と皮肉な題を付けました。
1994年4月、カート・コバーンは27歳で自ら命を絶ちました。バンドは活動を終えます。ここでは、その事実だけを記します。
同じ矛盾を、別のやり方で生き延びたバンドもあります。
パール・ジャムの抵抗——MVを捨て、チケット会社と闘う
パール・ジャムの選択は「成功の機械から降りる」でした。
大ヒットの真っ只中で、ミュージックビデオの制作をやめます。顔が売れすぎることは音楽の邪魔だと考えたためです。MTVが流行を決めた時代に、MTVに出さないという選択でした。1994年には、手数料の高さをめぐってチケット販売大手のチケットマスターと衝突し、メンバーが議会の公聴会で証言までしました。同社を通さないツアーは会場探しから難航し、興行としては苦しみます。
勝ったとは言いがたい闘いです。ただ、パール・ジャムは解散も失速もせず、30年後の今も中心メンバーのまま演奏を続けています。成功を憎むのではなく、成功の速度を自分で落とす。それが彼らの答えでした。
一方、グランジの「見た目」は、本人たちの手を離れて売られていきます。
フランネルシャツ、モードになる——古着が背負わされた意味
フランネルシャツは、もともと安くて丈夫な労働着です。雨が多く冷えるシアトルなら、古着屋で数ドルで買えました。おしゃれの宣言ではなく、金がないことの結果です。
1992年、デザイナーのマーク・ジェイコブスが、ニューヨークの名門ブランドのコレクションでグランジ風の装いを発表します。古着の格好が、高級服に翻訳された。数ドルだったはずの柄が、桁のいくつも違う値札を付けてランウェイを歩く。この挑発でジェイコブスはブランドを解雇されますが、のちにファッション史の事件として再評価されました。
「売れたくない」という美学すら、商品になる。グランジの矛盾は、音楽の外でも同じ形で繰り返されたことになります。
よくある質問
Q. グランジ入門におすすめのアルバムは?
ニルヴァーナ『ネヴァーマインド』、パール・ジャム『テン』、サウンドガーデン『スーパーアンノウン』、アリス・イン・チェインズ『ダート』が定番です。まず『ネヴァーマインド』を通して聴くと、残りの位置関係も見えてきます。
Q. グランジはいつ終わったのですか?
1994年のコバーンの死を区切りとする見方が一般的です。ただ、パール・ジャムは現役ですし、フー・ファイターズを率いるのは元ニルヴァーナのドラマー、デイヴ・グロール。終わったのは流行であって、音楽は続いています。
Q. なぜみんなフランネルシャツを着ていたの?
安くて暖かかったからです。シアトルの気候と、金のない若者の懐事情に合っていました。あれを「グランジファッション」と名づけたのは、シーンの外側の人たちです。
まとめ——問いは開いたまま
- グランジは1980年代末、シアトルの地下シーンから生まれた
- 『ネヴァーマインド』の大ヒットが、インディーの「魂を売るな」の掟と衝突した
- ニルヴァーナは音で逆走し、パール・ジャムは成功の速度を自分で落とした
- フランネルシャツの流行は、同じ矛盾がファッションで反復されたもの
冒頭の問いに戻ります。なぜニルヴァーナは売れたことに苦しんだのか。
「裏切り者になったと感じたから」。ここまで書いてきた説明はそれです。ただ、白状すると、私はこれで全部が片づくとは思っていません。売れる前のニルヴァーナが、大手との契約を自分から望んでいたのも事実だからです。売れたくて、売れたくなくて、その両方が本音だった。
矛盾は解けないまま、音だけが残っています。今夜あなたの部屋でどちらの声に聞こえるかは、再生してみるまで分かりません。
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