「線を散歩させる」——音楽家になるはずだったパウル・クレーの色彩

パウル・クレーは「色彩の画家」と呼ばれます。
ところが、その色を自分のものにしたのは34歳のとき。それまでのクレーは、白と黒の版画や素描ばかり作っていました。色がうまく使えない。本人がそう悩み続けていました。
もうひとつ。若いクレーが最初に立っていた道は、絵ですらありません。
音楽です。ヴァイオリンを弾かせれば玄人はだしで、10代でオーケストラの舞台にも立っていた青年が、なぜ絵筆を選び、どうやって34歳で色に追いつかれたのか。
私はこの順番を知ってから、クレーの絵の見え方が変わりました。順を追って書きます。
ヴァイオリンの名手は、なぜ絵を選んだのか——ベルンの音楽一家
クレーは1879年、スイスの首都ベルンの近くに生まれました。父は音楽教師、母は声楽を学んだ歌い手。7歳でヴァイオリンを始め、10代でベルンの管弦楽団の演奏会に加わるほどの腕前になります。
家の誰もが、音楽の道を疑いませんでした。
本人だけが疑っていました。クレーにとって音楽の頂点はバッハとモーツァルト。その完成された世界に、いまさら自分が付け加えるものは残っていない。そう考えた18歳のクレーは、まだ何者にでもなれるほうの道、絵を選んでミュンヘンへ修業に出ます。音楽は両親の世界。絵なら、誰の続きでもない自分から始められる。そんな若い反抗心もあったと伝えられます。
音楽と縁を切ったわけではありません。結婚した相手はピアニストのリリー・シュトゥンプフ。家計は彼女のピアノ教室が支え、クレーは家で幼い息子の世話をしながら、台所の一角で小さな版画を作り続けました。売れない画家の30代。作っていたのは風刺のきいた小さな白黒の版画で、展覧会に出しても数点売れるかどうか。30歳を過ぎても、代表作と呼べる絵は1枚もありません。それでも毎朝、仕事の前にヴァイオリンを弾く習慣だけは手放しませんでした。
ここで少し寄り道をします。クレーの絵と音楽の関係です。
クレーは後年、バッハの多声音楽(ポリフォニー)のように絵を組み立てました。1枚の中で、線のメロディー、色の和音、点のリズムが同時に進行する。題名にも『赤のフーガ』『ポリフォニー』と音楽用語が並びます。楽譜のように絵を「読める」画家は、後にも先にもクレーくらい。回り道したはずの音楽は、絵の中にちゃんと住み着いていました。
住み着いていなかったのは、色だけです。
「色彩と私はひとつだ」——1914年、チュニジアの2週間
1914年4月、34歳のクレーは、画家のアウグスト・マッケらと3人で北アフリカのチュニジアへ旅に出ます。
チュニスの白い壁。ハマメットの浜辺とモスク。内陸の聖なる都市カイルアン。強い日差しの下では、影までが色を持ちます。クレーは小さな水彩画を次々に描き、日記にこう書きつけました。
「色彩が私をとらえた。もう追いかける必要はない。色彩と私はひとつだ。私は画家である」

20年来の悩みが、2週間の旅で解けました。以後のクレーは、色を四角いモザイクのように並べる独特の画面を作っていきます。音楽で言う和音を、色で鳴らし始めたところです。
ひとつ、書き添えます。この旅の半年後、第一次世界大戦が始まりました。隣で同じ光を見ていたマッケは出征し、開戦から2か月足らずで戦死します。27歳でした。チュニジアの水彩は、失われる直前の幸福の記録でもあります。
1921年からは、ドイツの造形学校バウハウスの先生になりました。同僚にはカンディンスキーがいて、のちに隣り合わせの教員住宅に暮らします。授業のためにまとめた理論から広まったのが、冒頭の「線を散歩させる」という考え方です。線とは、点が散歩に出かけたもの。目的地を決めず、歩くこと自体を楽しむ線。『セネシオ』の丸い顔も、『さえずり機械』のふらふらした鳥たちも、この散歩の途中で生まれた形です。

白状すると、私は『セネシオ』を初めて見たとき、子どもの絵と何が違うのか分かりませんでした。今は少し分かります。子どもの線は目的地へ急ぎ、クレーの線は道草を選び抜いている。簡単そうに見える線ほど、その裏で消された迷いの数が多い。機会があれば、子どもの落書きと並べて見比べてみてください。
幸福な時代でした。そして、長くは続きませんでした。
1年で1,253点——病気がそぎ落とした最後の線
1933年にナチス政権が成立すると、クレーは教職を追われ、ドイツの美術館からは作品が押収されます。前衛美術をまとめて「退廃芸術」と呼ぶ時代でした。クレーは故郷ベルンへ戻ります。
追い打ちは病気です。1935年ごろから、皮膚や内臓が硬くなる難病(今日では強皮症と考えられています)に襲われ、1936年に作れた作品はわずか25点。年に100点を超えるのが当たり前だった人の、25点です。指はこわばり、若いころの細密な線はもう引けません。
ここからが、クレーの底力でした。
細い線が無理なら、太い線で描く。1939年、死の前年に残した作品は1,253点。生涯でいちばん多い年です。クレヨンや太い筆で、記号のように単純化された形が並びます。その中心にいたのが、天使でした。
『忘れっぽい天使』『まだ醜い天使』。クレーの天使は神々しくありません。物忘れをするし、醜いままだし、天使になりきれてもいない。人間と天使の中間で宙ぶらりんの、頼りない存在ばかりです。病室の自分と重ねる解釈が多いのも分かる気がします。最晩年の『死と火』では、白い顔の輪郭が、ドイツ語の「死(Tod)」の綴りとも読める線で描かれました。死を前にしても、線で遊ぶことをやめていません。

1940年6月、クレーは60歳で亡くなりました。晩年の太い線を、病気による衰えと見るか、たどり着いた境地と見るか。私は後者を取ります。60歳の線は、7歳でヴァイオリンを構えた日と同じくらい、まっすぐに歌っているからです。
よくある質問
Q. クレーの作品はどこで見られますか?
世界最大のコレクションは、スイス・ベルンの「パウル・クレー・センター」で、約4,000点を収蔵しています。日本では宮城県美術館がまとまった数のクレーを所蔵していることで知られます。展示替えがあるので、訪ねる前に公式サイトで確認してください。
Q. クレーの絵をこの記事で自由に載せられるのはなぜ?
クレーが1940年に亡くなり、作品の著作権保護期間(没後70年)が満了してパブリックドメインになっているためです。掲載図版はすべてその範囲のものです。
まとめ
- クレーは音楽一家に生まれたヴァイオリンの名手で、18歳で絵の道を選んだ
- 34歳のチュニジア旅行で「色彩と私はひとつだ」と書き、色の画家になった
- 「線を散歩させる」はバウハウスで教えた理論から広まった言葉
- 晩年は難病と向き合い、太く単純な線と天使の絵にたどり着いた。最多作の年は死の前年
次にクレーの絵の前に立ったら、色より先に、線を目で追ってください。どこから歩き出し、どこで道草を食い、どこで歌に変わるか。クレーの絵は止まった画像ではなく、演奏の記録です。
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