死後300年でピカソを動かした「ギリシャ人」——エル・グレコの逆転劇

スペインの古都トレド。石畳の坂を上り、細い路地を抜けた先に、小さな教会があります。
世界中から人が来ます。目当ては、壁一面の絵が一枚だけ。
『オルガス伯爵の埋葬』。描いた男は、スペイン人ではありません。署名はギリシャ文字でした。本名はドメニコス・テオトコプロス。長い名前を町の人は覚えられず、ただ「エル・グレコ=ギリシャ人」と呼びました。
よそ者として生きたこの画家は、死後300年ちかく忘れられます。掘り起こしたのは、セザンヌやピカソら近代の画家たちでした。
なぜ忘れられ、なぜ「発見」されたのか。トレドの教会から話を始めます。
クレタ島のイコン職人は、どうやってスペインのトレドに流れ着いたのか

1541年、エル・グレコはクレタ島に生まれました。当時はヴェネツィア領。ビザンティン式の聖画像「イコン」を描く職人として腕を認められた記録が残っています。
20代で本場ヴェネツィアへ。ティツィアーノに代表される、燃えるような色彩の街です。続いてローマでミケランジェロの人体表現に触れました。東方のイコン、ヴェネツィアの色、ローマの筋肉。この三つを抱えて、30代半ばでスペインに渡ります。
狙いは、国王フェリペ2世の大事業だった王宮エスコリアルの仕事でした。
結果は、事実上の落選です。納めた祭壇画は王の気に入らず、予定の場所に飾られませんでした。次の注文も来ません。宮廷への道が閉ざされた画家は、古都トレドに腰を落ち着け、死ぬまでの約37年をこの町で描き続けました。
そして、都落ちした男の筆から、スペイン美術史に残る一枚が生まれます。
『オルガス伯爵の埋葬』——250年以上前の葬儀に、二人の聖人が降りてきた
画面の下半分は、葬儀の場面です。金糸の祭服をまとった二人の聖人が、鎧姿の遺体を抱えて墓に納めようとしています。
モデルになったのは、この教会に伝わる奇跡の物語。1323年、信心深い領主オルガス伯が葬られたとき、聖ステファノと聖アウグスティヌスが天から降り、自らの手で遺体を葬ったといいます。エル・グレコが依頼を受けたのは、それから250年以上あとのことでした。
彼は、伝説を「過去の出来事」として描きませんでした。
遺体を囲んで並ぶ黒衣の男たちは、中世の人ではなく、当時のトレドに実在した名士たちの肖像です。250年前の奇跡が、注文主たちの目の前で起きている。上半分には雲が渦を巻き、死者の魂を迎えるキリストと聖母が待っています。地上と天上、二階建ての構図です。
左下には、こちらを見つめて奇跡を指さす少年がいます。エル・グレコの息子ホルヘ・マヌエルです。ポケットのハンカチには、父の署名と「1578」の数字。息子が生まれた年でした。
私はこの絵を画集で初めて見たとき、天上よりも、白い襞襟を並べた男たちの顔から目が離せませんでした。ひとりとして同じ顔がありません。
この絵は完成から400年以上、同じ教会の壁から動いていません。ただ、よく見ると人物たちは少し縦に長い。視線を上げるほど、伸びていきます。
引き伸ばされた身体——「乱視だった」説は、なぜ否定されたのか
天上のキリスト、宙を舞う天使、後年の聖人像。エル・グレコの人物は、上へ行くほど細く、長く、炎のように揺らぎます。
あまりに独特なので、後世には「乱視で、世界がゆがんで見えていた」という説まで現れました。
この説は否定されています。理由は単純で、同じ画家が描いた肖像画は、ごく正確な比率だからです。先ほどの名士たちの顔がそうでした。見えなかったのではありません。天に属するものだけを、選んで引き伸ばしていたのです。
出発点だったイコンを思い出してください。聖なるものを、現実の比率から切り離して描く伝統です。クレタ島で身につけた文法を、彼は捨てていませんでした。
引き伸ばされたのは、身体だけではありません。次は町そのものです。
『トレド眺望』——嵐の空の下で、建物ごと並べ替えられた町

鉛色の嵐雲が空を覆い、丘の上の建物だけが白く発光する。緑は不気味なほど深い。『トレド眺望』は、晴れた日の観光絵はがきとは正反対の一枚です。
当時のスペインで、人物のいない風景だけの絵はほとんど描かれませんでした。それだけでも異例です。
さらに、描かれた町は実際のトレドと配置が違います。目印になる建物の位置が、画面の都合で動かされている。地形の記録ではなく、町の性格を描いた「トレドの肖像画」と呼びたくなる絵です。
あなたの住む町を一枚で描くなら、どんな空を選びますか。エル・グレコは37年暮らした町に、嵐の空を選びました。
こうした絵を、後の時代のスペインはどう扱ったか。答えは冷たいものでした。
300年の忘却と、ピカソによる「発見」

1614年、エル・グレコはトレドで没します。73歳でした。
弟子の一派は続かず、絵の趣味は変わり、彼の名は美術史の隅に追いやられます。「常軌を逸した奇矯な画家」。長いあいだ、その一言で片づけられてきました。ほぼ300年です。
風向きが変わったのは19世紀後半でした。スペインを訪れた画家や批評家たちが、ベラスケスとともにエル・グレコを再評価しはじめます。形の正確さより、感情と色彩。近代絵画が向かおうとしていた方向の先に、300年前の絵が立っていました。セザンヌはその構図と色づかいを研究した画家の一人に数えられています。
決定的だったのはピカソです。
晩年の大作『第五の封印の開封』は、当時、画家仲間のスロアガが所有していました。ピカソは『アビニョンの娘たち』に取り組んでいた時期にこの絵を繰り返し見たと伝えられ、身をよじる裸体の群れの構図は、両者を並べて論じられ続けています。20世紀絵画の出発点とされる一枚の後ろに、忘れられた「ギリシャ人」がいました。
よくある質問
Q. 「エル・グレコ」とはどういう意味ですか?
「ギリシャ人」という意味のあだ名です。本名はドメニコス・テオトコプロス。本人はこの長い本名を、生涯ギリシャ文字で作品に署名し続けました。クレタ島出身の誇りを捨てなかった、と受け取られています。
Q. 作品はどこで見られますか?
『オルガス伯爵の埋葬』はトレドのサント・トメ教会にあり、今も現地でしか見られません。マドリードのプラド美術館、ニューヨークのメトロポリタン美術館に代表作が集まっています。日本では倉敷の大原美術館が『受胎告知』を所蔵しています。1614年没のため作品はパブリックドメインで、美術館の公式サイトで高精細画像も公開されています。
Q. なぜ300年も忘れられたのですか?
様式があまりに個人的で、継ぐ流派が育たなかったことが大きいとされています。死後は写実を重んじる時代が続き、引き伸ばされた身体は「欠点」と見なされました。その欠点が、近代には最大の美点として読み直されます。
まとめ:トレドの小さな教会へ
- エル・グレコはクレタ島出身。イコン、ヴェネツィアの色彩、ローマの人体表現を抱えてスペインへ渡った
- 宮廷に受け入れられず、古都トレドで約37年描き続けた
- 『オルガス伯爵の埋葬』は中世の奇跡と同時代の名士を一枚に重ねた二階建ての構図
- 引き伸ばされた身体は乱視のせいではなく、聖なるものだけに与えた意図的な様式
- 死後約300年忘れられ、セザンヌやピカソら近代の画家たちに「発見」された
今日やることは一つ。『オルガス伯爵の埋葬』の画像を開き、左下の少年の指の先を追ってください。よそ者と呼ばれた画家が観客に何を見せたかったのか、その指が全部教えてくれます。
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