カイユボットの雨のパリには、印象派らしい「にじみ」がない——『パリの通り、雨の日』と、仲間の絵を買い続けた画家

印象派の絵は、ぼんやりしている。そう思っている人は多いはずです。
モネの『睡蓮』も、ルノワールの踊る人々も、近づくと筆のあとが見え、輪郭は光の中に溶けている。それが印象派だ、と。
ところが、1877年の第3回印象派展に、まるで違う絵が出品されました。上の『パリの通り、雨の日』です。
石畳は一枚一枚、濡れた光を返している。シルクハットの縁も、傘の骨も、くっきりと描かれている。どこを見ても、絵の具のにじみや、勢いのある筆のあとがほとんどありません。
描いたのはギュスターヴ・カイユボット。印象派の「仲間」でありながら、仲間とはまるで違う描き方をした画家です。そして、彼がいなければ、印象派展そのものが続かなかったかもしれない人でもありました。
『パリの通り、雨の日』の石畳は、なぜこんなに滑らかなのか
この絵は、縦2メートル、横2メートル70センチを超える大画面です。
美術館で目の前に立つと、手前の夫婦はほぼ等身大に見えます。まるで、雨の交差点で向こうから歩いてくる二人とすれ違う瞬間に、自分が立ち会っているような感覚になる。

描かれているのは、パリのサン=ラザール駅にほど近い、できたばかりの交差点です。
19世紀の半ば、パリは大改造の最中にありました。県知事オスマンの指揮のもと、曲がりくねった中世の路地が取り壊され、まっすぐな大通りと、高さのそろったクリーム色の石造りのアパルトマンが次々に建てられていった。画面の奥にそびえる、船の舳先のような建物は、その新しいパリの姿そのものです。
カイユボットは、この新しい街を、新しい街にふさわしい冷たい精確さで描きました。
画面の中央には、緑色の街灯の柱がまっすぐに立ち、絵を左右に分けています。左には広い交差点と、遠くを行き交う小さな人影。右には、すぐ目の前に迫る夫婦。右端の男性は、体の半分が画面の外に切れてしまっています。
もう一つ、よく見てほしいことがあります。この絵には、雨粒が一つも描かれていません。
雨は、開いた傘と、濡れて光る石畳と、少しかすんだ遠くの建物だけで表されている。降っている雨そのものではなく、雨が街に残した跡を描いたわけです。私はこれに気づいたとき、急にこの絵の空気が湿って感じられました。
人物を画面の端でぶつりと切る構図は、当時広まりつつあった写真の影響だとよく言われます。誰もが同じ方向を向かず、それぞれがばらばらの方向へ歩き、誰も互いを見ていない。雨の日の都会の、知らない人同士が傘をさしてすれ違うだけの、あの少しよそよそしい感じが、画面全体に漂っています。
同じ展覧会で、モネはサン=ラザール駅を描いた絵を何枚も並べていました。駅の構内に蒸気機関車の煙がもうもうと立ちこめ、鉄骨の屋根も列車も、白い湯気の中に溶けていく絵です。同じ駅の、目と鼻の先。モネは湯気で街を溶かし、カイユボットは雨で街の輪郭をいっそう鋭くした。
二人の絵を並べてみると、「印象派」というひとくくりの名前が、どれほど幅の広いものだったかがわかります。
床を削る男たちはサロンに落とされた——裕福な画家が仲間の側に回った

カイユボットは1848年、パリの裕福な家に生まれました。
父は軍隊に寝具などを納める事業で財を成した人で、一家はパリの中心部に大きな屋敷を構えていました。息子は法律を学んだのち、画家を志し、アカデミーの画家のもとで修業を積みます。
上の『床削り』は、彼が20代半ばで描いた最初の大作です。
がらんとした部屋で、上半身裸の職人たちが、ひざまずいて木の床を削っている。窓からの光が、削られた床の筋と、汗ばんだ背中に反射しています。カイユボットは1875年、この絵を国の公式展覧会であるサロンに出品しました。
結果は、落選でした。
神話や歴史の英雄ならともかく、名もない労働者の、それも仕事中の汗ばんだ姿を大画面に描くことは、当時の審査員には下品なことと受け取られたといわれます。
この落選のあと、カイユボットはモネやルノワールたちの側に回ります。
1876年の第2回印象派展に『床削り』を出品し、以後は仲間として作品を並べ続けました。そして彼は、ただ出品するだけの仲間ではありませんでした。展覧会の会場を探し、費用を負担し、出品者の調整に走り回る。第3回展は、ほとんど彼が中心になって準備したと言われるほどです。
それだけではありません。売れずに困窮していた仲間たちの絵を、次々に買い取っていきました。モネのアトリエの家賃を払ったとも伝えられます。ルノワールの『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』、マネの『バルコニー』、モネのサン=ラザール駅の連作の一枚。のちに美術史の教科書に載るような作品が、彼のコレクションに集まっていきました。
28歳で書いた遺言と、国が断った絵

1876年、28歳のカイユボットは遺言を書きました。
この年、弟のルネが20代の若さで亡くなっています。自分も長くは生きないかもしれないと考えたといわれます。遺言の中身は、自分が集めた仲間たちの絵をすべて国に遺贈すること。条件は、それを美術館で展示することでした。
その日は、18年後にやって来ます。
1894年、カイユボットは45歳で亡くなりました。遺言の執行人に指名されていたのは、親友のルノワールです。
ところが、国は素直に受け取りませんでした。60点を超えるコレクションに対し、美術界の保守派は猛反発します。こんな未完成のような絵を国の美術館に飾るのは、国家の恥だ、という声まで上がった。長い交渉の末、国が受け入れたのは、その半分あまりにとどまりました。断られた作品の中には、セザンヌの絵も含まれていたといいます。
受け入れられた作品は、1897年にパリの美術館で公開されました。印象派の絵が、国の美術館にまとまって並んだ、ほとんど最初の機会です。今それらの多くは、パリのオルセー美術館の展示室の中心を占めています。
皮肉なことに、仲間の絵を守ったカイユボット自身の作品は、死後長いあいだ忘れられていました。『パリの通り、雨の日』がシカゴ美術館に収まり、彼が画家として再評価されるのは、20世紀も後半になってからのことです。
よくある質問
Q. 『パリの通り、雨の日』はどこで見られますか?
アメリカのシカゴ美術館が所蔵しています。展示状況は変わることがあるので、訪れる前に美術館の公式サイトで確認してください。
Q. カイユボットは絵のほかに何をしていた人ですか?
ヨットの設計とレースに熱中し、自分で船を設計していたことで知られます。切手の収集家としても有名で、晩年はパリ郊外の家で庭づくりにも打ち込みました。
まとめ
- 『パリの通り、雨の日』は1877年の第3回印象派展に出品された、縦2メートルを超える大作
- 筆のあとを残さない精確な描き方で、オスマンの改造でできた新しいパリを描いた
- 『床削り』がサロンで落選したあと、カイユボットは印象派の仲間となり、展覧会を資金面でも支えた
- 仲間の絵を買い集め、遺言で国に遺贈。国が受け入れたのは一部だったが、今オルセー美術館の中心を占めている
印象派は「にじんだ絵」の集まりではありません。にじまない絵を描いた一人の画家が、にじんだ絵を描く仲間たちを、お金と遺言で最後まで守り抜いた運動でもありました。
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