セザンヌはなぜリンゴばかり描いたのか?傾いたテーブルから始まった「近代絵画の父」の革命

セザンヌの絵は、正直うまく見えない。
テーブルは傾き、瓶はまっすぐ立っていません。リンゴは今にも転げ落ちそうです。それなのに美術の本を開くと、この人は「近代絵画の父」と書かれている。どこがそんなにすごいのか、と首をかしげた人は多いはずです。
答えは、その「傾き」の中にあります。
下手だから傾いたのではありません。わざと傾けたのです。
セザンヌのテーブルは、なぜ左右でつながっていないのか
上の絵『リンゴの籠』を、もう一度見てください。
白い布の左側に見えるテーブルの縁と、右側に見える縁。線をのばしても、つながりません。高さが違います。籠は手前に倒れかかり、瓶は左に傾き、皿のビスケットは上から見下ろしたように積まれている。
一枚の絵の中に、視点がいくつもあります。
写真なら、ありえません。カメラは一か所から一瞬だけを写すからです。ところが人間の目は違う。リンゴを見て、瓶を見て、少し首を動かして籠をのぞきこむ。私たちは物を「いくつもの角度から、時間をかけて」見ています。
セザンヌは、その見方のほうを絵にしました。
ルネサンス以来400年、西洋の絵は「一つの視点から見た世界」を正しく描く技術を磨いてきました。遠近法です。セザンヌは机の上の果物で、その約束を静かに破ってみせた。では、なぜ題材がリンゴだったのか。
「リンゴは動かない」——115回座らされた画商の話

理由は単純です。リンゴは動かないし、文句を言わないからです。
セザンヌは描くのが極端に遅い画家でした。ひと筆置いては考え、また置いては考える。花は描き終わる前にしおれるので、造花を使ったと伝えられます。リンゴなら何日も机の上でじっとしている。
人間のモデルは、そうはいきません。
画商のアンブロワーズ・ヴォラールは、肖像画のために115回もアトリエに通わされました。居眠りして姿勢を崩すと、セザンヌは怒鳴ったといいます。「リンゴのように座っていなさい。リンゴが動きますか」。
115回目のあと、画家は言いました。「シャツの胸のところは、悪くない」。
それで中断です。完成とは言いませんでした。
私はこの逸話が好きです。気難しさの話に聞こえますが、裏を返せば、1個のリンゴにも115回分の時間をかけて向き合っていた、ということだからです。色の面を少しずつ重ねて、丸みと重さを作る。セザンヌのリンゴが、つやつやではないのにずっしり見えるのは、この積み重ねのためです。
若いころ、彼はこう言ったとされています。「リンゴひとつでパリを驚かせたい」。
ただ、パリはなかなか驚いてくれませんでした。
銀行家の息子セザンヌ、パリで笑われ続けた20年
セザンヌは1839年、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれました。
父は帽子屋から身を起こした銀行家。息子には法律を学ばせたかった。中学校の親友に、のちの小説家エミール・ゾラがいます。いじめられていたゾラをセザンヌがかばい、翌日ゾラがお礼にリンゴの籠を持ってきた。セザンヌ本人が晩年に語った思い出話です。
ゾラに誘われ、22歳でパリへ。
結果は散々でした。国が開く公式展覧会「サロン」には落選を重ねます。1874年、モネやルノワールたちと第1回印象派展に出品すると、批評家から笑いものにされました。仲間内でも、いちばんひどく言われた一人です。
印象派の絵は光のきらめきを追います。セザンヌは、それでは物の形が溶けてしまうと考えた。「印象派を、美術館の絵のように堅固なものにしたい」。仲間とも目指す場所が違っていたのです。
40代で故郷エクスに引きこもります。
1886年、ゾラが小説『制作』を発表しました。才能がありながら成功できず、破滅する画家の物語です。自分がモデルだと感じたセザンヌは、短い礼状を送りました。以後、二人が会うことはなかったと伝えられます。
同じ年に父が亡くなり、遺産が入ります。絵が売れなくても描き続けられる身になった。誰にも見られないまま、彼は一つの山に向かいます。
サント=ヴィクトワール山を、何十回も描いた理由

エクスの東にそびえる、石灰岩の白い山。サント=ヴィクトワール山です。
セザンヌはこの山を、油彩と水彩で何十回も描きました。同じ山を、です。
晩年の作品になるほど、山も畑も家も、四角い色の面のパッチワークに近づいていきます。緑、黄土色、青。木の葉一枚一枚は描かれていません。それでも、離れて見ると空気の奥行きがきちんとある。
線や影ではなく、色の面の並べ方だけで空間を作る。
65歳のとき、若い画家への手紙にこう書いています。「自然を円筒、球、円錐によって扱いなさい」。目の前の風景を、いったん単純な形に置き直して組み立てる。リンゴで試したことを、山でやっていたわけです。
56歳で、画商ヴォラールがパリで初めての個展を開きました。若い画家たちが、ようやく驚きはじめます。
1906年の秋、野外で描いている最中に嵐に遭い、倒れました。数日後に肺炎で死去。67歳でした。亡くなる直前まで、絵筆を持っていたことになります。
ピカソが「われわれみんなの父」と呼んだセザンヌ

死の翌年、パリで大きな回顧展が開かれます。
そこに通いつめた若者の中に、26歳のピカソと、ジョルジュ・ブラックがいました。いくつもの視点を一枚に入れる。自然を単純な形に置き直す。二人はセザンヌの方法を極端まで押し進めます。それが、物をばらばらに分解して描く「キュビスム」です。
ピカソはのちに、セザンヌを「われわれみんなの父」と呼びました。
色彩の画家マティスも、貧しい時代に買ったセザンヌの小さな水浴図を、37年間手放しませんでした。迷ったときに立ち戻る場所だった、と語っています。形の側のピカソと、色の側のマティス。20世紀の二人の巨人が、同じ一人を師と仰いだことになります。
傾いたテーブルは、20世紀の絵画全体の出発点になったのです。上の『カード遊びをする人々』でも、テーブルはわずかに左へ傾いています。二人の農夫は、リンゴと同じようにどっしりと動きません。
よくある質問
Q. セザンヌは印象派の画家ですか?
印象派展に参加しましたが、のちに離れました。美術史ではゴッホ、ゴーギャンとともに「ポスト印象派(後期印象派)」に分類されるのが一般的です。
Q. 日本でセザンヌの作品は見られますか?
国内の複数の美術館が所蔵しています。展示の有無は時期によって変わるので、各館の公式サイトで最新情報を確認してください。
まとめ:セザンヌの絵は、まずテーブルの縁を見る
- セザンヌの静物画は、一枚の中に複数の視点が入っている。傾きは失敗ではなく方法
- リンゴを選んだのは、動かず、長持ちし、じっくり観察できるから
- サロン落選と酷評を重ね、40代から故郷エクスで孤独に制作した
- サント=ヴィクトワール山の連作で、色の面だけで空間を作る方法にたどり着いた
- 死後の回顧展がピカソとブラックを動かし、キュビスムの出発点になった
次にセザンヌの静物画に出会ったら、リンゴより先に、テーブルの縁を左右で見比べてください。線がずれていたら、そこが、絵画が400年ぶりに向きを変えた場所です。
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