バグパイプは戦場で鳴らす楽器だった——1944年、ノルマンディーの浜を吹きながら歩いた男

1944年6月6日の朝、フランス北部ノルマンディーの海岸。
上陸用の舟艇の扉が開き、兵士たちが腰まである冷たい海へ次々と飛び降りていきます。砂浜の向こうからは砲声と銃声。誰もが身をかがめ、一刻も早く浜を駆け抜けようとしていた。
その中に、銃を持たず、バグパイプを抱えて海に降りた若者がいました。
スコットランド出身の21歳、ビル・ミリン。彼は浜に上がると、弾が飛び交うなかで背筋を伸ばし、バグパイプを吹きながら、波打ち際を行ったり来たり歩き始めました。
ふざけていたわけではありません。それが彼の任務でした。
「それはイングランドの陸軍省の決まりだ」——ソード・ビーチの奏者
ミリンは、イギリス軍のコマンド部隊を率いるロヴァット卿の、専属のバグパイプ奏者でした。
ロヴァット卿は、スコットランド高地の古い一族の長でもありました。高地の一族には、戦いに臨むとき、バグパイプ奏者に兵士を先導させる長い伝統があります。
ところが当時、イギリス軍は、奏者が最前線で演奏することを禁じていました。第一次世界大戦で、あまりに多くの奏者が命を落としたからです。
ミリン自身がのちに語ったところによれば、上陸の前にその決まりを持ち出した彼に、ロヴァット卿はこう答えたといいます。それはイングランドの陸軍省の決まりだ。我々はスコットランド人だから関係ない。
こうしてミリンは、上陸作戦の担当地区の一つ「ソード・ビーチ」で、仲間が上陸してくるあいだ、浜を往復しながら故郷の行進曲を吹き続けました。吹いたのは『ハイランド・ラディ』や『ロード・トゥ・ジ・アイルズ』といった、スコットランドの兵士なら誰もが知る曲だったといいます。周りでは、倒れた兵士もいました。
のちに捕虜になったドイツ兵が、ミリンを撃たなかったのは、頭がおかしくなった男だと思ったからだ、と話したとも伝えられます。
その後、部隊は内陸へ進み、先に降下していた空挺部隊が守る橋へ向かいます。ミリンは、その道のりでもバグパイプを吹いて部隊を導きました。
止まらない音——袋とドローンとチャンターの仕組み

なぜ、戦場にバグパイプだったのか。答えの一つは、その音の大きさにあります。
スコットランドの「グレート・ハイランド・バグパイプ」は、屋外で鳴らすために作られた楽器です。その音は、銃声や風の音にも負けず、遠くの山の向こうまで届くといわれます。
仕組みを見てみましょう。
- 袋(バッグ):奏者は吹き口から息を吹き込み、袋をふくらませる。もとは羊などの動物の皮で作られていた
- ドローン:肩の上に突き出た3本の長い管。袋から送られる空気で、低い音を鳴らし続ける
- チャンター:奏者が指で穴を押さえて旋律を吹く管。使える音は9つほど

バグパイプの最大の特徴は、音が途切れないことです。
奏者は息継ぎのあいだも腕で袋を押し、ためておいた空気を送り続けます。だから、ドローンの低音と旋律は、曲の最初から最後まで一度も止まりません。
音を止められないので、同じ高さの音を2回続けて吹くとき、ふつうの管楽器のように舌で音を区切ることができない。そこで奏者は、音と音のあいだに、ごく短い別の音を素早く差し込みます。この細かい装飾音が、バグパイプ独特の、きらきらと跳ねるような響きを生んでいます。
私は初めて生のバグパイプを近くで聴いたとき、音が耳ではなく胸に当たってくるような感覚に驚きました。
塹壕の上で吹いた奏者たち——第一次世界大戦
バグパイプと戦場の結びつきは、ノルマンディーよりずっと前からありました。
18世紀の半ばから、イギリス軍はスコットランド高地の男たちで部隊を編成するようになり、タータン柄のキルトを軍服に取り入れました。こうした高地の部隊には、それぞれ専属の奏者たちがいました。行進のときも、野営地でも、そして突撃のときも、バグパイプが鳴った。
第一次世界大戦では、塹壕から兵士たちが敵陣へ飛び出していくとき、奏者が先頭に立って吹くことがありました。両軍が塹壕を掘ってにらみ合う戦場では、塹壕の外は機関銃の弾が飛び交う場所です。奏者は武器を持たず、楽器を吹きながら、いちばん目立つ場所を歩くことになる。
1915年、フランス北部のロースの戦いで、毒ガスが漂うなか、塹壕の上を歩きながらバグパイプを吹いて兵士たちを奮い立たせた奏者がいました。ダニエル・レイドロー。彼はこの行いで、イギリス軍の最高位の勲章を受けています。
けれども、こうした勇気の代償は大きく、多くの奏者が戦死しました。最前線での演奏が禁じられたのは、そのためです。
戦場の楽器から、別れの楽器へ

戦争が終わると、ミリンはいくつかの仕事を経て、イングランド南西部の町で福祉施設の仕事に就き、静かに暮らしました。
晩年には何度もノルマンディーを訪れ、上陸作戦の記念式典でバグパイプを吹いています。2010年、88歳で亡くなりました。その3年後、彼が吹きながら歩いたソード・ビーチの近くに、バグパイプを吹く彼の銅像が建てられています。
今、バグパイプを耳にするのは、戦場よりも、式典や別れの場面のほうが多くなりました。
スコットランドの結婚式や行進、エディンバラの城で毎夏開かれる軍楽隊の祭典。そして葬儀です。英語圏の国では、亡くなった人を送る場面で、一人の奏者がゆっくりとバグパイプを吹く光景がよく見られます。
兵士を戦場に送り出した音が、今は、人を最後に送り出す音になっている。途切れずに鳴り続けるドローンの低音には、どちらの場面にも似合う、不思議な重さがあります。
よくある質問
Q. バグパイプはスコットランドだけの楽器ですか?
いいえ。袋に空気をためて鳴らす楽器は、ヨーロッパから中東、北アフリカまで、昔から各地にあります。アイルランドには、腕で押すふいごで空気を送る「イリアン・パイプス」があり、スペイン北部やブルガリアにも独自のバグパイプがあります。
Q. バグパイプの曲で、最初に聴くならどれがいいですか?
葬儀や式典でよく演奏される『アメイジング・グレイス』のバグパイプ版は、多くの人が一度は耳にしている曲です。行進曲なら、ミリンがノルマンディーで吹いたとされる『ロード・トゥ・ジ・アイルズ』を探してみてください。
まとめ
- 1944年6月6日、ビル・ミリンはノルマンディーのソード・ビーチで、バグパイプを吹きながら仲間の上陸を先導した
- バグパイプは袋にためた空気で鳴らし続けるため、音が途切れず、屋外でも遠くまで届く
- スコットランドの部隊では、奏者が兵士を先導する伝統があり、第一次世界大戦では多くの奏者が戦死した
- 今では結婚式や式典、葬儀など、人を送り出す場面で鳴らされることが多い
あの朝、銃声のなかで鳴り続けた音は、聴いた兵士たちに「自分たちはまだ前に進んでいる」と知らせる音でした。次にどこかでバグパイプを耳にしたら、途切れないドローンの低音に耳を澄ませてください。冷たい海から浜へ上がってくる兵士たちを迎えたのも、同じ音です。
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