モンドリアンとは?風車の絵から赤・青・黄の四角にたどり着くまでの40年と『ブロードウェイ・ブギウギ』

「あれなら自分でも描ける」。
白い画面を黒い線が区切り、いくつかのマスだけが赤と青と黄色。文房具にも、スニーカーにも、店の看板にもなっている、あの絵です。定規と絵の具があれば、形だけなら今日中に真似できます。
では、あの画面にたどり着くのに、ピエト・モンドリアンは何年かけたか。
答えは、ほぼ40年。しかも出発点は風車と農家と牛、オランダのごく普通の風景画でした。木を描き続けた画家が、木を捨てるまで。その過程は、絵を4枚並べるだけで目で追えます。
まず、抽象とは無縁だった30代から見ていきます。
風車と牛を描いていた30代――「後の抽象画家」と言われても誰も信じない絵
モンドリアンの前半生に、四角も三原色も出てきません。
1872年、オランダのアメルスフォールト生まれ。父は小学校の校長で絵をたしなみ、叔父は職業画家。絵が身近にある家でした。アムステルダムの美術学校を出た彼が20代から30代に描いていたのは、運河、牧場の牛、夕暮れの農家です。茶色と灰色を基調にした、堅実な風景画。この時期の作品だけ見せて「後の抽象画家です」と言っても、たぶん誰も信じません。
変化の兆しは、色から来ました。

『赤い木』。夕闇に立つ一本の木を、燃えるような赤と深い青だけで描いた絵です。木はまだ、はっきり木に見えます。ただ、写実的な茶色はもうありません。色が「見えたまま」から「選んだもの」に変わり始めていました。
本当の転機は、そのあと。40歳の目前でした。
1911年、アムステルダムの展覧会で、モンドリアンはピカソとブラックのキュビスムを見ます。物の形を面と線に分解する、当時の最先端。翌年、彼はパリへ移住しました。自分の絵を根本から作り直すために、40歳で生活を捨てたわけです。
このころ名前の綴りも Mondriaan から Mondrian に変えています。過去と縁を切る、という意思表示でした。
パリで彼が描き続けたのは、やはり木でした。
一本の木が線になるまで――『赤い木』から『灰色の木』『花咲くリンゴの木』へ
モンドリアンの変化を追うのに、これほどわかりやすい素材はありません。同じ「木」を、彼は数年にわたって描き続けています。

『灰色の木』。色が抜け落ち、幹と枝は太い黒の曲線の束になりました。まだ木だとわかります。ただ、枝の一本一本が「線」として自己主張を始めている。背景の空も、線に区切られた面の集まりです。
私はこの3枚の中で、この『灰色の木』が一番好きです。木でもあり、線でもある。どちらとも決めきれない揺れが、画面にそのまま残っているからです。

翌年の『花咲くリンゴの木』になると、木の形はほとんど残っていません。画面いっぱいに広がるのは、リズミカルに繰り返される短い曲線と、そのあいだの明るい面だけ。題名を隠されたら、木だと当てられる人は少ないはずです。
3枚を並べると、何が起きたかがはっきりします。
モンドリアンは木を省略したのではありません。木を見つめ続けた結果、そこにあった「垂直に立つ力」と「水平に広がる力」だけを取り出した。枝葉や色は、その骨格を隠す飾りにすぎない――彼はそう考えるようになりました。
その後の海と防波堤の連作では、波も桟橋も短い縦棒と横棒に変わります。もう「何を描いたか」を当てる絵ではなくなっていました。
残ったのは縦と横。では、なぜ色まで三つに絞ったのか。
なぜ赤・青・黄と、縦横の線だけなのか――斜め45度で仲間割れした理由
答えを先に言うと、「混ぜて作れない色」と「最も基本的な対立」だけを残したからです。
第一次世界大戦が始まったとき、モンドリアンはたまたま帰省先のオランダにいて、パリに戻れなくなります。この足止めの期間に、理論が固まりました。1917年、画家テオ・ファン・ドゥースブルフらと雑誌『デ・ステイル』を創刊。掲げたのは「新造形主義」という考え方です。
ルールは徹底しています。
使う色は赤・青・黄の三原色と、白・黒・灰色の無彩色だけ。線は垂直と水平だけ。斜線と曲線は使わない。
なぜここまで縛るのか。モンドリアンは、目に見える世界の裏側に普遍的な秩序があり、絵はその秩序そのものを示すべきだと考えていました。若い頃から神智学という思想に傾倒していたことも、この方向を後押ししたと言われています。特定の風景や人物を描けば、それは「たまたまそこにあったもの」の記録にすぎない。誰の目にも同じに働く要素だけを残せば、絵は個人の感情を超える。それが彼の理屈でした。
三原色は、他の色を混ぜても作れない色。垂直と水平は、直交というもっとも単純な対立。引き算の果てに残った最小単位が、あの画面です。
この原則は、友情より重かった。
ファン・ドゥースブルフが斜めの線を導入したことに納得できず、モンドリアンは『デ・ステイル』を離れます。斜め45度が、許せなかったわけです。
その頑固な画面が、20年あまり後に踊り出します。
ニューヨークで黒い線が消えた――『ブロードウェイ・ブギウギ』は何が違うのか
1938年、戦火を避けてロンドンへ。1940年、ニューヨークへ。モンドリアンはすでに60代後半でした。
この街が、彼を変えます。碁盤の目に区切られたマンハッタンの街路、絶え間なく動く車のライト、そしてジャズ。彼はブギウギの音楽とダンスに夢中になりました。
そこから生まれたのが『ブロードウェイ・ブギウギ』です。ニューヨーク近代美術館が所蔵しています。
一見、従来の作品と同じ格子。ただ、決定的な違いが一つあります。あの太い黒の線が、消えているのです。かわりに黄色い帯が画面を走り、その上に赤・青・灰色の小さな四角が点々と並ぶ。線が色そのものになり、しかも一定ではなく、途切れ途切れに脈打っている。
止まっていた画面が、動き出しました。信号の明滅、タクシーの流れ、ピアノの跳ねるリズム。それが四角形だけで描かれています。制作にあたって彼は、絵の具を塗る前に色つきの粘着テープを画面に貼り、位置を何度も動かして構図を練ったと伝えられています。
続く『ヴィクトリー・ブギウギ』は未完のまま残りました。1944年、ニューヨークで肺炎により死去。最後の数年が、いちばん軽やかな絵を生んだことになります。
そして絵は、額縁の外へ出ていきました。
ワンピースになり、椅子になり、スマホの画面になった
モンドリアンの図柄が絵の外へ飛び出した、最も有名な例。1965年にイヴ・サンローランが発表したコレクションです。黒い線で区切った面に赤・青・黄を置いたシンプルなワンピースは「モンドリアン・ルック」と呼ばれ、ファッション史に残る一着になりました。
家具と建築にもつながっています。デ・ステイルの仲間だったヘリット・リートフェルトの「レッド・アンド・ブルー・チェア」、ユトレヒトのシュレーダー邸。どちらも、モンドリアンの平面を三次元に立ち上げたような作品です。
そして、いまあなたが見ている画面。
グラフィックデザインで当たり前に使われている「グリッド」――四角い区画に情報を割り付ける考え方――も、この流れの中にあります。ウェブサイトやアプリのレイアウトは、100年ほど前にオランダの画家が引いた縦横の線の、遠い子孫です。
よくある質問
Q. モンドリアンの作品はどこで見られますか?
オランダのハーグ市立美術館が世界最大級のコレクションを持ち、この記事の木の連作もそこにあります。『ブロードウェイ・ブギウギ』はニューヨーク近代美術館の所蔵です。展示状況は変わるため、訪問前に各館の公式サイトで確認してください。
Q. あの四角い絵に「正解の意味」はありますか?
特定の対象を描いたものではないので、「何が描いてあるか」を当てる必要はありません。線の太さの違い、色の面積のバランス、白い部分の大きさの差を見比べてみてください。少し位置がずれるだけで画面が崩れる。そこに気づくと、構図の緻密さが体感できます。
Q. 初期の風景画も見る価値はありますか?
先に見るほうが、後期の理解が変わります。とくに木の連作は、抽象画が生まれる過程をそのまま追体験できるシリーズです。
まとめ:「自分でも描ける」絵に、40年かかった理由
- 出発点はオランダの風景画。抽象に行き着いたのは40歳を過ぎてから
- 『赤い木』『灰色の木』『花咲くリンゴの木』を並べると、木が「縦と横」だけになる過程が見える
- 色は三原色、線は縦横だけ。斜めの線をめぐって仲間とも別れた
- ニューヨークの『ブロードウェイ・ブギウギ』では黒い線が消え、色の粒がリズムを刻む
「あれなら自分でも描ける」。冒頭の一言に戻ります。
形は描けます。ただ、線をどこに引くか。四角をどの大きさにするか。その位置を決めるために、モンドリアンは風車から木へ、木から線へと40年かけました。
次にあの格子模様をどこかで見かけたら、線の太さと四角の大きさを見比べてみてください。等間隔に見えて、一つとして同じ間隔がない。そこが、あの絵の本体です。
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