ロダン『考える人』は何を考えているのか?扉の上に座る男と、37年間完成しなかった『地獄の門』

上野の駅を出て、公園の並木を抜けると、右手に大きなブロンズの男が座っています。
右肘を左の膝に載せ、拳を顎に当て、下を向いている。国立西洋美術館の前庭です。子どもに「あの人、何を考えてるの」と聞かれて、答えられますか。
私は長いこと、答えられませんでした。
答えは、彼の後ろにあります。前庭の奥に立つ、高さ6メートルの黒い扉。『地獄の門』です。『考える人』はもともと、この扉の上に座り、下で苦しむ人々を見下ろしていた男でした。
扉の上に座る「詩人」——男が見下ろしているもの

『地獄の門』の中央、扉の上の壁に、小さな『考える人』がいます。
高さ70センチほど。周りには、身をよじる裸の男女が何十体も彫り込まれている。上から見ると、彼は地獄に落ちていく人々を見ているようにも、自分の頭の中を見ているようにも見えます。
この男の最初の名前は「詩人」でした。
扉の主題は、ダンテの『神曲』の地獄篇。イタリアの詩人ダンテが、地獄をめぐって死者たちに会う長い詩です。ロダンは扉の上に、地獄を見つめる詩人ダンテを置くつもりでした。ところが作っているうちに、その男は詩人でも誰でもない、考えるという行為そのものの姿になった。
だから、彼が何を考えているかは決まっていません。
決まっているのは、どこに座っているか。地獄の上です。
姿勢をよく見てください。右の肘が、左の膝に載っています。試しに真似をすると、上半身がねじれて、長くは保てない姿勢だとわかります。楽に考えている人の姿ではない。体の全部を使って、何かに耐えている姿です。ロダンはこのねじれで、頭の中の緊張を体に移しました。私はこの場所を知ってから、上野の『考える人』の顔が、悩んでいる顔ではなく、見ている顔に見えるようになりました。
では、この扉はいつ、何のために作られたのか。
1880年、建つ予定のなかった美術館の扉

1880年、フランス政府はロダンに一枚の扉を注文しました。
パリに建てる予定の装飾美術館の、正面の入り口です。ロダンは40歳。注文を受けた彼は、『神曲』の地獄篇を主題に、扉一面を人物で埋める計画を立てました。
美術館は、建ちませんでした。
計画が流れても、ロダンは扉を作り続けます。人物を足し、外し、配置を変える。『接吻』はもともとこの扉のために作られた男女ですが、幸福すぎるという理由で外されました。上に立つ『三つの影』、子を食らう『ウゴリーノ』、そして『考える人』。ロダンの代表作の多くが、この扉から生まれています。
最終的に、扉には200体近い人物がひしめいています。
1900年、パリ万博に合わせた個展で、ロダンは石膏の扉を公開しました。ただし人物の多くを外した、未完成の姿で。ブロンズに鋳造されることは、生前ついにありませんでした。1880年の注文から、1917年に亡くなるまで37年。完成しなかったのではなく、完成させなかった、という見方もあります。
上野の扉は、その死後に鋳造されたものです。実業家の松方幸次郎が注文し、日本に運ばれました。世界に数点しかない『地獄の門』のブロンズが、上野の前庭にある理由です。
松方は造船会社の社長で、第一次世界大戦のころにヨーロッパで大量の美術品を買い集めた人物です。その収集品が戦後にフランスから返還され、それを収める建物として1959年に開館したのが国立西洋美術館でした。設計はル・コルビュジエ。前庭には『考える人』『地獄の門』と並んで、同じロダンの『カレーの市民』も立っています。上野の一角に、ロダンの三つの代表作が屋外で揃っている計算です。
70センチの男が、180センチになって独り立ちした
『考える人』は、扉を離れて一人で立つことになります。
ロダンは1902年ごろ、扉の上の70センチの像を、人の背丈を超える大きさに拡大しました。1904年にパリの展覧会で発表。1906年には、市民の寄付でパリのパンテオン(偉人を祀る建物)の前に置かれます。地獄を見下ろす詩人が、街の広場で考える労働者になった。
この拡大像の鋳造が、世界中に広まりました。
上野の像も、その一つです。同じ型から作られたブロンズが、パリ、フィラデルフィア、上野、そしてロダン自身の墓の上にも座っています。ロダンはパリ郊外ムードンの自宅の庭に葬られ、墓石の代わりに『考える人』が置かれました。
自分の墓の上に、地獄を見つめていた男を置いた。
その男がなぜこれほど筋肉質なのか、という疑問は、ロダンの若いころにさかのぼります。
三度落ちた受験と、「生きた人間から型を取った」疑い

ロダンは1840年、パリの下級役人の家に生まれました。
美術学校の入学試験には三度落ちています。仕方なく、建物の飾りを作る職人として働き、20代をほぼ無名で過ごしました。35歳でイタリアへ行き、ミケランジェロの彫刻を見て、体の表現が変わります。
帰国後の1877年、『青銅時代』という等身大の男性裸像を発表しました。
あまりに生々しかったため、「生きたモデルの体から直接型を取ったのではないか」と疑われます。彫刻家にとっては、偽物扱いに近い侮辱です。ロダンはモデルの写真や証言を集めて反論し、疑いは晴れました。この騒ぎで名前が知られ、3年後の『地獄の門』の注文につながります。
三度落ちた男が、国の扉を任された。
扉の制作が本格化した1880年代、工房に助手として入ったのが、まだ10代だった彫刻家カミーユ・クローデルです。彼女は扉の人物の手や足を任され、やがてロダンの恋人になり、後に自分の作品で認められます。『地獄の門』は、一人の彫刻家の作品であると同時に、大きな工房の仕事でもありました。
『考える人』の背中や腕の筋肉は、その「生きた体」への執着から来ています。考えている人の体が、なぜあれほど緊張しているのか。頭ではなく、全身で考えているからです。
よくある質問
Q. 『考える人』は世界にいくつありますか?
拡大像だけで20数点のブロンズがあり、小さな像も含めると数はさらに増えます。上野のほか、日本国内の複数の美術館にも所蔵されています。
Q. 上野の『地獄の門』は本物ですか?
ロダンの原型から鋳造された正規のブロンズです。ロダンの死後に鋳造されたもので、世界に数点しかない鋳造の一つです。
Q. 国立西洋美術館の前庭は無料で見られますか?
前庭の彫刻は、屋外なので入館せずに見られます。開館時間などは公式サイトで確認してください。
まとめ:上野で、男の後ろに回ってください
- 『考える人』はもともと『地獄の門』の上に座り、地獄を見下ろす「詩人」だった
- 『地獄の門』は1880年、建つ予定のなかった美術館の扉として注文され、37年間完成しなかった
- 『接吻』も『三つの影』も、この扉から生まれた
- 70センチの像は1902年ごろに拡大され、パンテオン前に置かれ、ロダン自身の墓の上にも座っている
- 上野の『考える人』と『地獄の門』は、松方幸次郎が注文した正規のブロンズ
次に上野へ行ったら、『考える人』の前で立ち止まったあと、そのまま奥へ歩いて『地獄の門』の前に立ってください。扉の上の小さな男を見つけたら、彼が何を考えているかは、もう聞かなくてよくなります。
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