20歳のメンデルスゾーンが、100年眠っていたバッハを起こした——『マタイ受難曲』1829年のベルリン

100年。
バッハの『マタイ受難曲』が、ライプツィヒの教会で最初に演奏されてから、ベルリンでよみがえるまでの時間です。その間、この3時間の大曲は、ほとんど誰にも聴かれていません。楽譜は写しが数部あるだけで、出版もされていなかった。
起こしたのは、20歳の青年でした。
フェリックス・メンデルスゾーン。裕福な銀行家の息子で、14歳のクリスマスに祖母から一冊の楽譜をもらいます。それが『マタイ受難曲』の写しでした。6年後、彼はその曲を自分の指揮でベルリンの聴衆の前に出します。
今、バッハが「音楽の父」と呼ばれているのは、この夜があったからです。
100年前の楽譜を、祖母がクリスマスにくれた
メンデルスゾーンは1809年、ハンブルクに生まれました。
祖父は哲学者モーゼス・メンデルスゾーン、父は銀行家。ユダヤ人の家に生まれ、幼いころにキリスト教の洗礼を受けています。9歳で人前でピアノを弾き、10代で交響曲を書いた。家には音楽家や学者が出入りし、日曜には自宅で演奏会が開かれていました。
その家で、少年はバッハを習います。
先生はカール・フリードリヒ・ツェルター。ベルリンの合唱団「ジングアカデミー」を率いる人物で、当時としては珍しく、バッハの古い楽譜を集めていました。ジングアカデミーの書庫には『マタイ受難曲』の写しがあった。祖母がクリスマスに贈った楽譜は、そこから写させたものと伝えられます。
14歳の少年は、この楽譜を読み始めました。
演奏を聴いたことは一度もない。楽譜を読んで、頭の中で鳴らすしかない。そうして6年間、彼はこの曲と付き合います。では、なぜそんな大曲が、100年も演奏されずにいたのか。
「古いかつら」と呼ばれた父——バッハはなぜ忘れられたのか
バッハは1685年に生まれ、1750年に亡くなりました。
最後の27年間は、ライプツィヒの聖トーマス教会の音楽監督です。毎週日曜の礼拝のために新しいカンタータを書き、少年合唱団を教え、オルガンを弾いた。子どもは2度の結婚で20人。『マタイ受難曲』は1727年ごろ、この教会の聖金曜日の礼拝のために書かれました。
生前のバッハは、オルガンの名手として知られていました。
作曲家としては、むしろ古風だと思われていた。息子たちのほうが、当時の新しい様式で人気があった。次男カール・フィリップ・エマヌエルは、父を「古いかつら」と呼んでいたと伝えられます。愛情のこもった呼び名ではあるものの、時代遅れ、という意味です。
死後、楽譜は息子たちに分けられ、散っていきました。
鍵盤曲の一部は音楽家のあいだで教材として残り、モーツァルトもベートーヴェンも『平均律クラヴィーア曲集』を学んでいます。ただ、教会のための大きな声楽曲は、演奏する場を失ったまま眠っていた。『マタイ受難曲』は、その代表です。
眠っていた曲を、20歳が起こそうとします。
3時間の受難曲を、20歳が短く切った——1829年3月11日

『マタイ受難曲』は、新約聖書のマタイによる福音書から、キリストの受難の場面を歌う曲です。
裏切り、逮捕、裁判、十字架、埋葬。福音書記者が語り、キリストが歌い、群衆の合唱が叫び、アリアが祈る。合唱団は2組、オーケストラも2組。全曲で3時間近く。当時のベルリンの聴衆にとっては、聴いたことのない規模の宗教音楽でした。
メンデルスゾーンは、友人たちと自宅でこの曲を歌い始めます。
仲間の一人に、俳優で歌手のエドゥアルト・デフリーントがいました。デフリーントは、この曲を仲間内で終わらせず、ジングアカデミーの公開演奏会で出すべきだと言い出します。二人でツェルターを説得に行き、渋る師から合唱団の使用を取りつけました。
1829年3月11日、ベルリンのジングアカデミー。
指揮は20歳のメンデルスゾーン。キリストの役はデフリーント。長すぎる曲をいくつかのアリアを省いて短くし、当時の聴衆が聴きやすい形に整えていました。会場は満員で、入れない人が外にあふれたと伝えられます。
同じ月に再演。3回目は4月の聖金曜日に、ツェルター自身の指揮で行われました。
「役者とユダヤ人の息子が、キリスト教最大の音楽をよみがえらせた」

演奏の後、メンデルスゾーンがデフリーントに言ったとされる言葉があります。
「役者とユダヤ人の息子が、世界のためにキリスト教最大の音楽をよみがえらせたのだ」。デフリーントが後年の回想録に書き残したもので、二人のあいだの冗談だったと伝えられます。
冗談の中に、事実が入っています。
『マタイ受難曲』を100年ぶりに鳴らしたのは、教会でも音楽学校でもなく、俳優と、ユダヤ人の家に生まれた20歳の青年と、自宅の日曜演奏会の仲間たちだった。バッハを「音楽の父」にしたのは、大きな組織ではなく、一冊の楽譜を6年読み続けた個人です。
この演奏会は、ベルリンだけで終わりませんでした。
起こされたバッハは、その後どうなったか

1829年の演奏をきっかけに、ドイツ各地でバッハの声楽曲が演奏され始めます。
メンデルスゾーンは1835年、バッハの街ライプツィヒの楽団の指揮者になりました。そこでバッハのオルガン曲を弾いて資金を集め、1843年に聖トーマス教会のそばにバッハの記念碑を建てています。当時、バッハの銅像は世界に一つもありませんでした。
バッハの死からちょうど100年の1850年には、全作品を出版する協会が作られます。
半世紀をかけて、カンタータ、受難曲、オルガン曲が次々に印刷され、誰でも楽譜を手に入れられるようになった。今、世界中の合唱団が春に『マタイ受難曲』を歌えるのは、この出版のおかげです。
バッハ自身の墓は、長いあいだ場所がわからなくなっていました。
19世紀の終わりに遺骨とされるものが見つかり、1950年、聖トーマス教会の祭壇の前に移されています。教会の床に、名前だけを刻んだ銅板がある。100年忘れられた作曲家は、自分が27年間働いた教会の、いちばん前に眠っています。
よくある質問
Q. 『マタイ受難曲』は初めてでも聴けますか?
全曲は3時間近くあるので、まず冒頭の合唱と、有名なアルトのアリア「憐れみたまえ、わが神よ」の2曲から聴くのが手軽です。歌詞の日本語訳を見ながら聴くと、物語が追えます。
Q. メンデルスゾーンが1829年に演奏した版は今も使われていますか?
現在は、バッハが書いた全曲を演奏するのが一般的です。1829年の短縮版は、歴史的な資料として研究や再現演奏で取り上げられることがあります。
Q. バッハとメンデルスゾーンは会っていますか?
会っていません。バッハが亡くなったのは1750年、メンデルスゾーンが生まれたのは1809年で、59年の隔たりがあります。
まとめ:100年と、6年
- 『マタイ受難曲』は1727年ごろライプツィヒで演奏された後、約100年間ほとんど聴かれなかった
- バッハは生前オルガンの名手として知られ、作曲家としては古風だと思われていた
- メンデルスゾーンは14歳で祖母から楽譜をもらい、6年読み続けて1829年に20歳で指揮した
- 俳優デフリーントの後押しで、自宅の演奏会がベルリンの公開演奏会になった
- この復活をきっかけにバッハ全集の出版と記念碑の建立が進み、「音楽の父」の地位が定まった
100年眠っていた曲を起こしたのは、14歳の少年が受け取った一冊の楽譜と、それを読み続けた6年間でした。今夜、『マタイ受難曲』の冒頭の合唱を聴くなら、その6年間の最初の1ページを、20歳の青年と一緒にめくるつもりで聴いてください。
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