ヴィヴァルディ『四季』は200年眠っていた——赤毛の司祭と、孤児院の少女オーケストラ

作者不詳『アントニオ・ヴィヴァルディの肖像』とされる絵、ボローニャ国際音楽博物館
作者不詳『アントニオ・ヴィヴァルディの肖像』とされる絵、ボローニャ国際音楽博物館

18世紀のヴェネツィア、日曜の午後。

運河沿いの教会に、着飾った貴族や外国からの旅行者が集まっています。目当ては礼拝ではありません。祭壇の脇、鉄の格子の向こうから聞こえてくる、少女たちのオーケストラです。顔は見えない。格子と薄い布の向こうで、10代の娘たちがヴァイオリンを弾き、オーボエを吹き、歌っている。

その楽団のために曲を書いていたのが、赤い髪の司祭でした。

アントニオ・ヴィヴァルディ。『四季』の作曲家です。

ただし『四季』が今のように誰もが知る曲になったのは、彼の死から200年ほど後のこと。それまで楽譜は、ほとんど忘れられていました。読み終えるころには、「春」の冒頭の鳥の声が、少し違って聞こえるはずです。

格子の向こうで弾いていたのは、捨て子の少女たちだった

ヴェネツィアのピエタ教会(サンタ・マリア・デッラ・ピエタ)。ヴィヴァルディが働いた慈善院の付属教会(Photo: Didier Descouens / CC BY-SA 4.0)
ヴェネツィアのピエタ教会(サンタ・マリア・デッラ・ピエタ)。ヴィヴァルディが働いた慈善院の付属教会(Photo: Didier Descouens / CC BY-SA 4.0)

ヴィヴァルディの職場は、ピエタ慈善院という施設でした。

捨てられた赤ん坊や、親のいない子どもを引き取って育てる、ヴェネツィア共和国の孤児院です。音楽の才能がある娘は「合唱の娘たち」と呼ばれ、徹底した音楽教育を受けました。彼女たちの演奏会は、ヨーロッパ中に知られる観光の目玉になります。

1703年、25歳のヴィヴァルディがヴァイオリン教師としてここに雇われました。

仕事は、教えること、そして曲を書くこと。教会の祭日ごとに新しい協奏曲が必要で、ヴィヴァルディは書き続けました。彼の協奏曲の多くは、この少女たちのために作られています。難しいソロは、腕のいい娘のために書かれた。

観客には顔が見えない。だから、音だけで評判が決まる。

ヴィヴァルディの音楽が「聴けばすぐわかる」ほどはっきりしているのは、この事情と無関係ではないと言われます。ところで、司祭であるはずの彼が、なぜ教会でミサをせず、ヴァイオリンを教えていたのか。

赤毛の司祭は、なぜミサをやめたのか

ヴィヴァルディは1678年、ヴェネツィアに生まれました。

父親は床屋からヴァイオリン奏者になった人で、サン・マルコ大聖堂の楽団で弾いていました。息子は父からヴァイオリンを習い、同時に司祭になるための勉強をします。25歳で司祭に叙階。髪が赤かったので、街では「赤毛の司祭」と呼ばれました。

ところが叙階から間もなく、彼はミサを執り行うのをやめてしまいます。

本人が挙げた理由は「胸の狭さ」。喘息のような持病で、ミサの途中で息が苦しくなる、というものでした。祭壇を降りて楽譜を書きに行った、という噂も流れました。真相は本人にしかわかりません。

はっきりしているのは、その後の30年あまり、彼がピエタで書き続けたことです。

協奏曲だけで500曲ほど。オペラも数十作。あまりの多作に、後の作曲家から「同じ協奏曲を500回書いた」と皮肉られたことまであります。ただ、その中の4曲だけは、誰にも似ていない仕掛けを持っていました。

『四季』には14行の詩がついている——吠える犬と、歯の震える音

『四季』は、1725年にアムステルダムで出版された12曲の協奏曲集の、最初の4曲です。

「春」「夏」「秋」「冬」。それぞれ3つの楽章で、10分前後。ここまでは、当時の協奏曲の普通の形です。普通でないのは、楽譜に詩がついていること。

各曲に14行のソネットが添えられ、楽譜の該当する箇所に詩の一節が書き込まれています。

「春」の冒頭で鳴くのは小鳥。続いて小川のせせらぎ、そして雷。第2楽章では羊飼いが眠り、その横でヴィオラが同じ音を繰り返します。これは吠える犬です。楽譜にそう書いてある。

「夏」の終わりは、雹が畑を打つ嵐。「秋」は収穫の踊りと、酔って眠る農夫。そして「冬」。

「冬」の冒頭は、寒さに歯を鳴らして震える音です。

第2楽章では、暖炉のそばでくつろぐ人を弦楽器が歌い、外の雨をヴァイオリンのピチカート(指ではじく音)が窓に打ちつける。第3楽章では氷の上を恐る恐る歩き、転び、また立ち上がる。詩を読んでから聴くと、音の一つ一つに役があるとわかります。

あなたが「春」しか知らないなら、まず「冬」の第2楽章を聴いてほしい。3分足らずで、ヴィヴァルディが「描く」作曲家だったことがわかります。

その男が、なぜ無名のまま死んだのか。

500曲書いた男が、ウィーンで貧しく死んだ理由

ピエル・レオーネ・ゲッツィが描いたヴィヴァルディの戯画(1723年)
ピエル・レオーネ・ゲッツィが描いたヴィヴァルディの戯画(1723年)

1720年代のヴィヴァルディは、ヨーロッパで最も忙しい音楽家の一人でした。

各地の宮廷から注文が来て、オペラは自分で興行まで手がけた。上の絵は、ローマで描かれた本人の戯画です。とがった鼻に、豊かなかつら。ローマの人気者だったころの姿と伝えられます。

ところが1730年代、ヴェネツィアの流行は変わります。

より軽く、より歌うようなナポリ風のオペラが好まれ、赤毛の司祭の音楽は古くなった。ピエタとの契約も揺れ、収入は落ちていきます。1740年、62歳のヴィヴァルディはヴェネツィアを離れ、ウィーンへ向かいました。皇帝カール6世が彼の音楽を気に入っていたからです。

到着して間もなく、その皇帝が亡くなります。

後ろ盾を失ったヴィヴァルディは、翌1741年7月、ウィーンで亡くなりました。63歳。埋葬は、貧しい者のための簡素なものだったと記録されています。ヴェネツィアで名を知られた作曲家の最期を、当時のウィーンの人はほとんど気に留めませんでした。

そして、楽譜は散っていきます。

200年後、トリノで見つかった楽譜の山

カナレット『ヴェネツィア、大運河の入口』18世紀
カナレット『ヴェネツィア、大運河の入口』18世紀

ヴィヴァルディの死後、その名前は音楽史の脚注になりました。

かろうじて残ったのは、バッハが若いころに彼の協奏曲を鍵盤楽器用に編曲していた、という記録です。バッハ研究者が「バッハが手本にしたイタリア人」として名前を知っている。その程度でした。演奏会で『四季』が弾かれることは、ほぼありません。

流れが変わったのは、1920年代の終わりです。

イタリア北部の修道院に眠っていた大量の自筆譜が見つかり、トリノの図書館に収められました。協奏曲、オペラ、宗教曲。ヴィヴァルディの作品の大半が、ここから姿を現します。研究が始まり、演奏が始まり、第二次世界大戦後にはレコードが出ました。

『四季』は、そこから一気に広まります。

今では世界で最も多く録音されたクラシック曲の一つに数えられます。カフェで、結婚式で、電話の保留音で。格子の向こうの少女たちのために書かれた音楽が、200年の眠りを経て、地球上のあらゆる場所で鳴っています。

よくある質問

Q. 『四季』は全部で何分くらいですか?
4曲で合計40分前後です。1曲ずつは10分ほどなので、まず「冬」か「春」を1曲だけ聴くところから始めても十分です。

Q. ソネット(詩)は誰が書いたのですか?
作者は書かれていませんが、ヴィヴァルディ自身が書いたという説が有力です。楽譜と詩の対応が細かいことが、その根拠とされています。

Q. ヴィヴァルディはバッハと同じ時代の人ですか?
ほぼ同じ時代です。ヴィヴァルディの方が7歳年上で、バッハは彼の協奏曲を研究し、編曲もしています。二人が直接会った記録はありません。

まとめ:今夜、「冬」の第2楽章を3分だけ

  • ヴィヴァルディは司祭でありながらミサをやめ、ヴェネツィアの孤児院で少女たちのために曲を書き続けた
  • 『四季』は1725年出版の協奏曲集の最初の4曲で、各曲に14行の詩がついている
  • 吠える犬、震える歯、窓を打つ雨。音の一つ一つに詩の役が割り当てられている
  • 晩年は流行に取り残され、1741年にウィーンで貧しく亡くなった
  • 楽譜の大半は1920年代にトリノで見つかり、『四季』は200年の眠りから覚めた

今夜、「冬」の第2楽章を聴いてみてください。3分足らずです。弦の歌が暖炉のそばの人で、ピチカートが窓の雨。それがわかったら、次は「春」の羊飼いの横で吠える犬を探してください。

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