ドガは踊り子に興味がなかった——「踊り子の画家」が本当に描いていたもの

ドガといえば、踊り子。ここまでは誰でも知っています。
美術館のポストカード売り場でも、カレンダーでも、チュチュを着た少女たちの絵にはたいてい「ドガ」の名前がついている。作品の半数以上がバレエに関するもので、その数は1,500点ほどと言われます。
では、ドガが踊り子の何を描きたかったのか。
答えは、本人がはっきり残しています。「私が踊り子を描くのは、動きと、きれいな衣装を描くためだ」。人が思うほど、少女たち自身に興味はなかった、と。
「踊り子の画家」という呼び名が本人には少し不本意だったことを知ると、あの絵の見え方が変わります。
ドガは「踊り子の画家」と呼ばれるのを嫌った
エドガー・ドガは1834年、パリの銀行家の家に生まれました。
若いころは古典派の巨匠アングルを尊敬し、「線を引きなさい、若者よ」と本人から言われたという話が伝わっています。デッサンの人です。イタリアで古典を模写して回り、歴史画から出発しました。
踊り子を描き始めるのは、30代の終わりごろから。
きっかけはパリのオペラ座です。当時のオペラ座は、上演の合間にバレエが入る場所でした。ドガはその舞台裏や稽古場に通い、少女たちが跳び、伸び、あくびをする姿を、何百枚も紙に描きとめました。
「動き」を描きたかった、と本人は言います。
たしかに、ドガの絵には踊っていない踊り子が多い。靴ひもを結んでいる、背中をかいている、壁にもたれている。晴れ舞台よりも、その前後の一瞬ばかりです。
では、あの有名な稽古場の絵は何を描いた絵なのか。
『ダンス教室』の床の広さ——舞台ではなく稽古場を描いた理由
『ダンス教室』は、画面の半分近くが床です。
右奥に白髪の老教師が杖をついて立ち、その前で一人の少女がポーズを取っている。教師はジュール・ペロー。かつて有名だった振付師です。ところが、絵の主役はこの二人ではありません。手前の少女たちは、順番を待って背中をかき、髪を直し、退屈している。
この「待っている時間」が、ドガの狙いでした。
舞台の上では全員が同じ方向を向きます。稽古場では、ばらばらの方向を向く。その無秩序を、ドガは高い視点から、日本の浮世絵のように斜めの構図で切り取りました。人物が画面の端で切れているのも、わざとです。写真のスナップに似た偶然を、計算して作っている。
私は、この絵の広い床を見るたびに、少女たちの足音が聞こえるような気がします。
そしてもう一つ、ドガの踊り子には、たいてい黒い服の男が写り込んでいます。
『エトワール』の舞台袖に立つ、黒い服の男は誰か

『エトワール』は、上から見下ろした一人の踊り子です。
パステルで描かれた白いチュチュが光り、少女は片脚を後ろに上げて笑っている。ところが左奥の舞台袖には、顔のない黒い服の男が立っています。
この男は「アボネ」と呼ばれる、オペラ座の定期会員です。
当時、金持ちの定期会員は舞台裏に入ることが許されていました。踊り子の多くは貧しい家の娘で、7、8歳からオペラ座に入り、「小さなネズミ」と呼ばれていました。彼女たちにとって、黒い服の男は後ろ盾であり、同時に危険でもあった。ドガはそれを隠しませんでした。
きれいな衣装の絵に見えて、この時代の現実が一枚に入っています。
「動きと衣装を描きたい」と言った男が、実際にはそこにいる人間の立場まで描いてしまった。あなたが次にドガの踊り子を見るとき、画面の端に黒い影がないか探してみてください。
その視線は、やがて一体の彫刻で、パリを怒らせることになります。
本物のチュチュを着せた『14歳の小さな踊り子』が「猿」と呼ばれた日

1881年の印象派展に、ドガはたった一体の彫刻を出しました。
蝋で作った少女の像に、本物の布のチュチュを着せ、髪には本物のリボンを結んだ。高さは1メートルほど。モデルはオペラ座で踊っていたベルギー出身の少女、マリー・ヴァン・グーテム、14歳でした。
批評家の反応は、ひどいものでした。
顔が「猿のようだ」「野蛮だ」と書かれ、犯罪者の骨相と比べる者までいた。ガラスケースに入れて展示されたことも、見世物のようだと言われました。ドガが生前に公開した彫刻は、これ一体だけです。
なぜ本物の布を使ったのか。
理由は本人が語っていませんが、結果ははっきりしています。大理石の女神ではなく、目の前の少女が、そこに立っていた。顎を上げ、目を細め、疲れた顔で。今、世界中の美術館にあるブロンズ像は、ドガの死後に蝋の原型から鋳造されたものです。
この「本物らしさ」へのこだわりは、ドガのもう一つの評判とつながっています。
印象派なのに外で描かない——「私の芸術ほど計算されたものはない」
ドガは印象派展に8回中7回出品しました。それでも、自分を「印象派」と呼ばれることを嫌いました。
モネやルノワールが戸外で光を追いかけたのに対し、ドガはほとんど屋外で描いていません。アトリエで、記憶とデッサンから組み立てる。「私の芸術ほど自然発生的でないものはない」という言葉が残っています。
自分では「写実主義者」と名乗りたがったと伝えられます。
その通り、ドガの絵は見た瞬間の印象ではなく、何十枚ものデッサンを積み上げた設計図です。同じポーズの踊り子が別の絵に何度も現れるのは、そのためです。
ただ、その設計図を描く目が、40代から悪くなり始めます。
見えなくなる目と、パステルの粉
ドガの視力は、40代のころから衰え始めました。
明るい光がつらく、細部が見えにくい。油絵の細かい仕上げが難しくなると、ドガはパステルに向かいます。粉を指でこすり、線を重ね、色を重ねる。晩年の踊り子の絵に、輪郭が太く、色が燃えるように濃いものが多いのは、この目の変化と無関係ではありません。
彫刻に向かったのも、同じ理由です。
見えなくても、手で形は作れる。アトリエには蝋や粘土の踊り子や馬の小像が、100体以上残されていました。
1917年、83歳。第一次世界大戦の最中のパリで、ドガはほとんど目の見えない状態で亡くなりました。「踊り子の画家」と呼ばれた男は、最後には踊り子を見ることができず、指の記憶だけで作っていたことになります。
よくある質問
Q. ドガの踊り子の絵は、どこで見られますか?
オルセー美術館(パリ)とメトロポリタン美術館(ニューヨーク)に多くの作品があります。『14歳の小さな踊り子』のブロンズ像は、複数の美術館が所蔵しています。展示状況は各館の公式サイトで確認してください。
Q. ドガは印象派ですか?
印象派展に8回中7回参加しているので、一般には印象派に分類されます。ただし本人はその呼び名を嫌い、戸外制作もほとんどしていません。
Q. パステルと油絵、どちらが多いのですか?
初期は油絵が中心で、視力が衰えた40代以降はパステルが増えます。踊り子の代表作の多くはパステルです。
まとめ:次に見るとき、顔ではなく足元と背中を
- ドガは「踊り子の画家」と呼ばれたが、本人は「動きと衣装を描きたい」と語っていた
- 『ダンス教室』は踊っている時間ではなく、待っている時間を描いている
- 『エトワール』の舞台袖の黒い服の男は、当時の踊り子たちの現実を映している
- 『14歳の小さな踊り子』は本物の布を着せた蝋の像で、発表時は「猿」と酷評された
- 印象派展の常連でありながら、屋外では描かず、記憶とデッサンで組み立てる画家だった
踊り子の絵は、きれいな衣装の絵ではありません。待ち時間の背中と、画面の端の黒い影を描いた絵です。次にドガを見るとき、少女の顔ではなく、足元と背中から見てください。
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