拍手が聞こえなかった作曲家——ベートーヴェン『第九』初演の夜、歌手が彼の袖を引いた

1824年5月7日、ウィーンの劇場。
舞台の上に、指揮者が二人います。一人は本物の指揮者で、楽団はこの人を見ています。もう一人は、その横で楽譜をめくりながら腕を振り回している53歳の男。髪は乱れ、拍を数えているようですが、楽団の演奏とはまるで合っていません。
耳が、聞こえていないからです。
曲が終わり、客席が総立ちになります。拍手、歓声、帽子とハンカチが宙に舞う。ところが男は、まだ楽譜に向かったままです。そのとき、独唱を歌っていた女性歌手が歩み寄り、彼の袖を引いて客席のほうへ体を向けさせました。男はそこで初めて、自分の曲が受け入れられたことを、目で知りました。
ベートーヴェン『交響曲第9番』の初演です。

この場面が演奏の途中だったのか最後だったのか、記録は割れています。ただ、袖を引いた歌手がいたことは、複数の証言が伝えています。年末になると日本中で歌われるあの曲は、作曲家自身が一度も「聴いた」ことのない曲でした。
なぜ聞こえない耳で、声の交響曲を書いたのか
ベートーヴェンの耳は、20代の終わりから悪くなり始めました。
30代のはじめには、人との会話が困難になります。1802年、ウィーン郊外の村で書いた遺書のような手紙には、耳の不自由を隠して生きる苦しさと、それでも音楽のために死ねないという言葉が並んでいます。31歳でした。
第九の初演のころには、ほとんど何も聞こえていません。
会話は筆談です。訪問者が用件を書き、ベートーヴェンが口で答える。その「会話帳」が何冊も残っていて、当時の彼の暮らしがわかります。飲み屋の注文、家政婦への文句、甥の教育の悩み。そして、作曲の話。
聞こえないのに、なぜ書けるのか。
音楽家は頭の中で音を鳴らせます。楽譜を読めば、演奏しなくても響きがわかる。耳を失っても、その能力は残りました。むしろ外の音に邪魔されなくなった、という見方もあります。事実として、第九を含む晩年の作品は、聞こえていたころの作品より複雑で、長く、自由です。
その第九で、ベートーヴェンは交響曲の常識を一つ壊しました。
交響曲に人の声を入れた——『歓喜に寄す』を30年あたためた男

第九の第4楽章には、独唱と合唱が入ります。
それまでの交響曲は、楽器だけで演奏するものでした。オーケストラの上に人の声を乗せた交響曲は、これが最初と言ってよく、当時の人には型破りに映りました。約70分の大曲の、最後の20分あまりで、突然人間が歌い出す。
歌われるのは、詩人シラーの『歓喜に寄す』です。
人類が兄弟になる喜びをうたった詩。ベートーヴェンはこの詩を、20代のころから曲にしたいと考えていたと伝えられます。実現までに30年ほど。若いころの夢を、耳の聞こえなくなった50代で形にした計算です。
第4楽章の始まりは、聴きどころです。
まず、これまでの3つの楽章の旋律が、次々に呼び戻されては、低い弦楽器に打ち消されます。どれも違う、と言うように。そして、あの単純な旋律が、低い弦だけで静かに現れる。誰でも口ずさめる、音階のように上下するだけの歌。それが少しずつ楽器を増やし、やがて独唱の低い声が、友に呼びかける言葉で歌い出し、合唱へなだれ込みます。
私は、この呼びかけの一言に、耳の聞こえない人が書いた歌の重さを感じます。聞こえない人が、聞いてくれと呼びかけている。
初演のあと、この曲はどう広まったのか。
徳島の捕虜収容所から始まった、日本の「第九」
日本で最初に第九が全曲演奏されたのは、1918年、徳島県の板東俘虜収容所でした。
第一次世界大戦で捕虜になったドイツ兵たちが、収容所の中でオーケストラと合唱団を作り、演奏したのです。楽器は手作りのものもあり、女声のパートは男が歌いました。収容所の所長が捕虜を人道的に扱ったことで知られ、地元の人々との交流も生まれています。日本の第九は、敵国の捕虜の合唱から始まりました。
年末に第九を演奏する習慣は、第二次世界大戦後に広まったものです。
戦後の楽団が、年末の収入を確保するために客の入る第九を演奏したのが始まりだと言われます。今では12月に日本各地で演奏され、1万人が合唱する催しまであります。年末の第九は、ドイツではなく日本の習慣です。
世界でも、この曲は特別な場面で選ばれ続けています。
1989年、ベルリンの壁が崩れた直後のクリスマス、指揮者バーンスタインは東西の楽団を集めて第九を演奏しました。歌詞の「歓喜(フロイデ)」を「自由(フライハイト)」に変えて歌わせたことは有名です。第4楽章の旋律は、欧州連合の歌にも採用されています。
第九が変えたもの——CDの長さから、後輩たちの恐怖まで
第九の影響は、音楽の外にも及びました。
CDの収録時間が約74分に決まった理由として、「第九が一枚に収まる長さにした」という逸話が広く語られています。どこまで事実かは議論がありますが、規格の話に交響曲の名前が出てくる曲は、他にありません。
作曲家たちにとって、第九は目標であり、恐怖でもありました。
ブラームスは、自分の交響曲第1番を完成させるまでに20年以上かけています。ベートーヴェンの後で交響曲を書く重圧が理由の一つだったと伝えられます。「9番目の交響曲を書くと死ぬ」という迷信も生まれました。ベートーヴェンの後、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、マーラーと、9番を最後に世を去った作曲家が続いたからです。
ベートーヴェン自身は、初演の3年後、1827年に56歳で亡くなりました。
第九の自筆の楽譜は現在ベルリンの図書館にあり、ユネスコの「世界の記憶」に登録されています。訂正だらけの、殴り書きの楽譜です。あの夜、聞こえない耳で楽団の前に立った男が、頭の中の音を紙に移した跡が、そのまま残っています。
よくある質問
Q. 第九はどの楽章から聴けばいいですか?
初めてなら第4楽章からで構いません。約25分で、有名な旋律と合唱が含まれます。慣れたら第1楽章から通して聴いてください。第4楽章の冒頭で前の楽章の旋律が否定される場面の意味がわかります。
Q. 演奏時間はどれくらいですか?
指揮者により差がありますが、全曲でおおむね65〜75分です。
Q. 「歓喜の歌」と「第九」は同じものですか?
「歓喜の歌」は第九の第4楽章、シラーの詩を歌う部分の通称です。第九は4つの楽章からなる交響曲全体を指します。
まとめ:今年の12月、袖を引かれた男を思い出す
- 1824年の初演で、耳の聞こえないベートーヴェンは拍手を聞けず、歌手に袖を引かれて客席を見た
- 聴力を失ったのは20代の終わりから。晩年は筆談の「会話帳」で暮らしていた
- 第九は交響曲に人の声と合唱を入れた最初期の例。シラーの詩を30年あたためて曲にした
- 日本初演は1918年、徳島の捕虜収容所のドイツ兵。年末の第九は戦後の日本で広まった習慣
- ベルリンの壁崩壊の年の演奏、欧州連合の歌、CDの長さの逸話まで、影響は音楽の外に及ぶ
今年の12月、どこかで第九が流れたら、第4楽章の最初の呼びかけの一言だけ、耳を澄ませてください。それは、拍手が聞こえなかった人の、聞いてくれという声です。
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