一人で弾くコンサートは、リストから始まった——ピアノの「リサイタル」と、手袋を奪い合った聴衆

テオドール・ホーゼマン『演奏会場にて』1842年。ベルリンでのリストの演奏会を描いた風刺画。聴衆が花や冠を投げ、身を乗り出している
テオドール・ホーゼマン『演奏会場にて』1842年。ベルリンでのリストの演奏会を描いた風刺画。聴衆が花や冠を投げ、身を乗り出している

ピアノのリサイタルといえば、舞台にピアニストが一人。

ほかに歌手も、オーケストラも出てこない。最初から最後まで、一人で弾き続ける。そんなの当たり前じゃないか、と思いますよね。

ところが、200年ほど前までは、それは当たり前ではありませんでした。

一晩の演奏会には、歌手が歌い、オーケストラが序曲を演奏し、合間にピアニストが少し腕前を披露する。いろいろな出し物を並べるのが、普通のやり方でした。

その常識を壊したのが、フランツ・リストでした。上の絵は、1842年のベルリンで彼の演奏会がどんな騒ぎになったかを描いた風刺画。花が飛び、女性たちが舞台に詰め寄っています。

「ピアノのパガニーニになる」——20歳の決心

リストは1811年、いまのハンガリーとオーストリアの境にある村に生まれました。

父はエステルハージ家という大貴族に仕える役人で、アマチュアの音楽家。息子の才能に気づくと、すべてを投げうって音楽教育に注ぎ込みます。少年リストはウィーンで名教師チェルニーに学び、12歳でパリへ。神童として、早くからサロンの人気者になりました。

転機は、20歳のときに訪れます。

1832年、パリでイタリアのヴァイオリニスト、パガニーニの演奏を聴いたのです。悪魔に魂を売ったとまで噂された、あの超絶技巧。リストは打ちのめされ、自分はピアノのパガニーニになると心に決めたといわれます。

それからの数年、リストは一日に何時間も練習に打ち込みました。パガニーニのヴァイオリン曲をピアノ用に書き直した練習曲もこの時期に生まれ、のちに有名な『ラ・カンパネラ』へと仕上げられていきます。

1840年のロンドン、「リサイタル」という言葉が生まれた

1839年から、リストはヨーロッパ中を回る演奏旅行に出ます。

8年ほどのあいだに開いた演奏会は、1000回ほどにのぼるといわれます。ロシアからスペイン、ポルトガル、トルコのイスタンブールまで。鉄道もまだ十分に整っていない時代に、馬車を乗り継いでの旅でした。

この旅の途中で、リストは演奏会のやり方そのものを変えていきます。

ほかの出演者を呼ばず、自分一人で最初から最後まで弾く。友人あての手紙では、ルイ14世の「朕は国家なり」をもじって、「演奏会、それは私だ」と書いたと伝えられます。

1840年、ロンドンの演奏会の告知には、「ピアノによるリサイタル」という言葉が使われました。リサイタル(recital)は、もともと「暗唱」や「語り聞かせ」の意味。一人の演奏家が、まるで詩を朗読するように、次々に曲を弾いていく。今の私たちが使う「リサイタル」は、ここから広まったとされています。

ピアノを横向きにしたのも、楽譜を置かなかったのも

ヨーゼフ・ダンハウザー『ピアノを弾くリスト』1840年、ベルリン旧国立美術館。ピアノの上にはベートーヴェンの胸像が置かれている
ヨーゼフ・ダンハウザー『ピアノを弾くリスト』1840年、ベルリン旧国立美術館。ピアノの上にはベートーヴェンの胸像が置かれている

リストが変えたのは、演奏者の数だけではありません。

それまでピアニストは、客席に背を向けたり、正面を向いたりと、さまざまな向きで弾いていました。リストは、ピアノを舞台に横向きに置き、客席に自分の横顔が見えるようにしたといわれます。開いたふたが、音を客席へはね返す向きでもありました。

楽譜も置かず、暗譜で弾くことが多かった。

鍵盤から顔を上げ、長い髪を振り乱して弾く横顔。上のダンハウザーの絵は、パリの文化人たちに囲まれて演奏するリストを描いたものです。実際にこの顔ぶれが一堂に会したわけではなく、画家が思い描いた理想の場面とされますが、作家のデュマやジョルジュ・サンド、作曲家のロッシーニらが、うっとりとリストを見つめています。

演奏は、音楽であると同時に、見せ物でもあった。

この考え方は、今のピアニストのリサイタルにも、そのまま受け継がれています。

一人で一晩を弾き通すには、曲もたくさん要ります。リストは自作だけでなく、他人の作品もピアノ用に書き直して弾きました。ベートーヴェンの9つの交響曲を、すべてピアノ1台で弾けるように編曲したのもリストです。録音のない時代、オーケストラの演奏会がない町の人々は、リストのピアノで初めてベートーヴェンの交響曲を耳にしました。

「リストマニア」——手袋を奪い合った聴衆

アンリ・レーマン『フランツ・リストの肖像』1839年。演奏旅行に出る直前、28歳ごろの姿
アンリ・レーマン『フランツ・リストの肖像』1839年。演奏旅行に出る直前、28歳ごろの姿

リストの演奏会は、どこへ行っても熱狂を呼びました。

女性たちは、彼が置き忘れた手袋やハンカチを奪い合い、彼が飲み残したコーヒーや、吸い残した葉巻まで持ち帰ったと伝えられます。演奏中に気を失う人も出たといわれる。

ドイツの詩人ハインリヒ・ハイネは、この騒ぎを「リストマニア」と名づけました。

今で言えば、アイドルやロックスターのライブです。19世紀の半ばに、すでにそれと同じことが起きていた。冒頭の風刺画は、その様子を少し大げさに、けれどおそらく遠くない形で描いています。

正直に言うと、私はこの手の逸話を、いつも半分くらいに割り引いて読みます。話はたいてい、語り継がれるうちに大きくなるからです。それでも、同じ時代の風刺画や詩人の言葉にまで残っている以上、ただの作り話ではなかったはずです。

35歳で人気の絶頂から降りた

晩年のリスト(1886年頃)。聖職者の服を着ている
晩年のリスト(1886年頃)。聖職者の服を着ている

1847年、リストは35歳で、お金をとって弾く演奏旅行をやめてしまいます。

人気は絶頂でした。最後の演奏旅行の途中、ウクライナのキーウで、のちに長く人生を共にするヴィトゲンシュタイン侯爵夫人と出会っています。作曲家として本格的な仕事をするよう彼を励ましたのが、この女性だったといわれます。

リストは舞台を降り、ドイツの小さな宮廷都市ヴァイマルに落ち着いて、宮廷楽長として作曲と指揮に打ち込みます。オーケストラで詩や物語を描く「交響詩」という形式を生み出したのも、この時期です。

その後も、慈善のための演奏会では弾き続けました。若いピアニストたちを教えるときは、レッスン料をとらなかったといわれます。

晩年には、ローマで聖職者の資格を受け、黒い僧服をまとうようになりました。1886年、娘コジマの夫ワーグナーゆかりの町バイロイトで、74歳で亡くなっています。

よくある質問

Q. リストの曲で、最初に聴くならどれがいいですか?
『愛の夢 第3番』がおすすめです。ゆったりした旋律が、途中で一度だけ大きく盛り上がり、また静かに戻る。リストの「歌わせるピアノ」がよくわかります。技巧の派手さを味わうなら『ラ・カンパネラ』を。

Q. リストとショパンは知り合いでしたか?
はい。同じ時期のパリで活躍し、交流がありました。大きな会場で聴衆を沸かせたリストに対して、ショパンは小さなサロンでの演奏を好んだことで知られます。

まとめ

  • 19世紀前半まで、演奏会はさまざまな出演者の出し物を並べるのが普通だった
  • リストは1839年からの演奏旅行で、一人で全曲を弾く演奏会を広めた
  • 1840年のロンドンで「リサイタル」という言葉が使われ、今に受け継がれている
  • ピアノを横向きに置き、暗譜で弾く。熱狂は「リストマニア」と呼ばれた
  • 35歳で演奏旅行をやめ、作曲と教育に後半生を捧げた

今夜、『愛の夢 第3番』を1曲だけ聴いてみてください。舞台に一人きりで、横顔を客席に向けて弾いていた青年の姿を思い浮かべながら。今あたりまえになった「一人の演奏会」は、その横顔から始まりました。

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