箪笥ほどの機械がバッハを弾いた——モーグ・シンセサイザーと、1968年の『スイッチト・オン・バッハ』

シンセサイザーの音を、一度も聴いたことがない人はいません。
ゲーム機の効果音、テレビCMの電子音、ポップスのイントロで鳴るきらきらした音。いまでは鍵盤アプリの中にも入っていて、スマートフォン一台で鳴らせます。
けれど、最初の頃のシンセサイザーは、とても持ち歩けるものではありませんでした。
上の写真を見てください。大きな箪笥ほどの木の箱に、つまみと差し込み口がびっしり並び、黒いケーブルが何本も垂れ下がっている。下に小さな鍵盤が一つ。これが、1960年代に生まれたモーグ・シンセサイザーの姿です。
この機械が一般の人にまで知られるきっかけは、ロックでもSF映画でもありませんでした。250年前に書かれた、バッハの音楽だったのです。
箪笥ほどの機械と、電話交換台のようなケーブル
シンセサイザーとは、電気の力で音を「合成」する楽器のこと。
モーグのシンセサイザーは、いくつもの部品の箱でできています。音のもとになる波を作る箱。その波から一部の響きを削って、音色を柔らかくしたり鋭くしたりする箱。音の鳴り始めから消えるまでの形を決める箱。それぞれを、昔の電話交換台のようにケーブルで差し替えながらつないでいく。
つなぎ方を変えれば、まったく違う音が出る。
自由な反面、扱いはとても難しいものでした。一つの音色を作るのに、何本ものケーブルと何十ものつまみを調整しなければならない。しかも当時のモーグは、一度に一つの音しか出せません。ピアノのように和音を弾くことは、できなかったのです。
テルミン少年だった技術者——1964年のロバート・モーグ

作ったのは、アメリカの技術者ロバート・モーグ。
ニューヨークで育ったモーグ少年は、10代のころから、手を触れずに演奏する電子楽器テルミンを自分で組み立てていました。大学で工学を学びながら、テルミンの組み立てキットを売る小さな商売も始めています。
転機は1964年。作曲家ハーバート・ドイチュと知り合い、新しい電子楽器の試作に取りかかります。その年の秋、ニューヨークで開かれた音響技術者の学会で、モーグは自作の装置を発表しました。電圧の強さで音の高さや音色を操るしくみで、鍵盤をつなげば、演奏者が楽器として弾くこともできる。
ここから、注文が少しずつ入り始めます。最初の客は、大学の電子音楽スタジオや、前衛的な作曲家たちでした。普通の音楽ファンにとっては、まだ無縁の機械です。
1968年、バッハが100万枚売れた——『スイッチト・オン・バッハ』
状況を一変させたのが、1968年に発売された1枚のアルバムでした。
『スイッチト・オン・バッハ』。音楽家ウェンディ・カルロスが、モーグ・シンセサイザーだけでバッハの曲を演奏したアルバムです。『ブランデンブルク協奏曲第3番』、『G線上のアリア』、『主よ、人の望みの喜びよ』。誰もが一度は聴いたことのある旋律が、ぴこぴこ、ぶーんという、聴いたことのない音で鳴っていました。
録音は、気の遠くなるような作業だったといわれます。
一度に一つの音しか出ないので、バッハの何声部もの曲は、一つの声部ずつ別々に録音して、あとで重ね合わせるしかない。しかも初期のシンセサイザーは温度によって音程がずれやすく、録音の合間に何度も調律し直す必要がありました。一音ずつ、数か月をかけて組み上げていったのです。
なぜバッハだったのか。バッハの音楽は、いくつもの旋律が同時に、対等に進んでいく作りになっています。一つずつ録音して重ねるやり方と、相性がよかった。それぞれの声部に違う音色を割り当てれば、旋律の絡み合いが、目で見るようにくっきり聴こえてきます。
アルバムは、クラシックとしては異例の大ヒットになりました。のちに売り上げは100万枚を超え、グラミー賞を3部門で受賞します。
クラシックのファンには「バッハへの冒涜だ」と眉をひそめる人もいました。それでも、多くの人が、このアルバムで初めて「シンセサイザー」という言葉を知った。古い音楽が、新しい楽器の名刺代わりになったわけです。
持ち運べるモーグ——ミニモーグとロックの70年代

箪笥のような大型機は、スタジオから動かせません。
そこでモーグ社が1970年に発売したのが「ミニモーグ」でした。必要な部品をあらかじめ中でつないでおき、ケーブルを差し替えなくても、つまみとスイッチだけで音が作れる。鍵盤と一体になって、ステージに持ち込める大きさです。
ロックやジャズの鍵盤奏者たちは、こぞってこの楽器を使い始めます。うなるような太い低音や、ギターのように歌うソロの音色は、1970年代の音楽の顔になりました。ビートルズも、大型のモーグを1969年のアルバム『アビイ・ロード』の録音で使っています。
ただ、商売としては順調ではありませんでした。ほかの会社も次々にシンセサイザーを作り始め、やがて日本のメーカーも、より安く、和音も弾ける機種を送り出していきます。モーグ本人は会社の経営から離れ、その後も小さな工房で電子楽器を作り続けました。
2005年、ロバート・モーグは71歳で亡くなります。テルミンを組み立てていた少年は、生涯、はんだごてを手放さない技術者のままでした。
税関で止められた楽器——冨田勲と日本のシンセサイザー
日本でモーグの名前を広めたのは、作曲家の冨田勲です。
1971年、冨田は大型のモーグ・シンセサイザーを個人で輸入しました。ところが、見たこともない機械だったため、税関で楽器とは認められず、なかなか手元に届かなかったと伝えられます。
手探りで音作りを重ねた冨田は、1974年、ドビュッシーのピアノ曲をシンセサイザーで編曲したアルバム『月の光』を発表します。このアルバムは、日本人として初めてグラミー賞の候補に選ばれました。
その後、坂本龍一らのイエロー・マジック・オーケストラも、大型のモーグをステージに持ち込みます。操作を担当した松武秀樹は、「4人目のYMO」と呼ばれました。
よくある質問
Q. 「ムーグ」と「モーグ」、どちらが正しいのですか?
日本では長く「ムーグ」と表記されてきましたが、本人の発音に近いのは「モーグ」だとされ、今はこちらの表記が増えています。どちらも同じ人物、同じ会社のことです。
Q. 『スイッチト・オン・バッハ』は今でも聴けますか?
CDや配信で聴くことができます。原曲のバッハと聴き比べると、同じ旋律がどれほど違って聞こえるかがよくわかります。
まとめ
- モーグ・シンセサイザーは、部品の箱をケーブルでつないで音を作る電子楽器。1964年にロバート・モーグが発表した
- 初期のモーグは一度に一つの音しか出せず、大きさは箪笥ほどもあった
- 1968年の『スイッチト・オン・バッハ』が大ヒットし、シンセサイザーの名を世界に広めた
- 1970年のミニモーグでステージに持ち出せるようになり、日本では冨田勲やYMOがその音を広めた
スマートフォンで鳴らせるあの電子音の、ずっと手前に、ケーブルだらけの箪笥と、一音ずつ重ねられたバッハがあります。250年前の旋律が、まだ名前も知られていない機械の、最初の名刺になりました。
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