足のない幽霊を最初に描いたのは円山応挙ではない——「写生の画家」の本当の仕事

円山応挙の作と伝わる『幽霊図』
円山応挙の作と伝わる『幽霊図』

「幽霊に足がないのは、円山応挙が始めたから」。

一度は耳にしたことがある話だと思います。江戸時代の京都の絵師が、下半身を霞のようにぼかした幽霊を描いた。それがあまりに怖かったので、以後、日本の幽霊は足を失った。

よくできた話ですが、正確ではありません。

応挙が生まれる60年前、1673年に出版された浄瑠璃の本の挿絵に、すでに足のない幽霊が描かれています。応挙は「発明者」ではなかった。

それでも「応挙の幽霊」という呼び名が残ったのには、理由があります。そして幽霊画は、この画家の仕事のほんの端っこにすぎません。

円山応挙の出発点は、おもちゃ屋の「のぞき眼鏡」だった

円山応挙による眼鏡絵。京都・四条の芝居小屋の前の通りを、西洋式の遠近法で描いている(Photo: Ismoon / CC BY-SA 4.0)
円山応挙による眼鏡絵。京都・四条の芝居小屋の前の通りを、西洋式の遠近法で描いている(Photo: Ismoon / CC BY-SA 4.0)

応挙は1733年、丹波国の穴太村(いまの京都府亀岡市)で、農家の次男に生まれました。

10代で京都へ出て奉公し、やがて「尾張屋」という玩具商で働きはじめます。そこで任されたのが、眼鏡絵の制作でした。

眼鏡絵とは、「のぞき眼鏡」という箱形の装置でのぞいて楽しむ風景画です。レンズを通すと、西洋の遠近法で描かれた町並みが、奥行きをもって立体的に浮かび上がる。18世紀の京都で流行した、一種のアトラクションでした。

上の絵を見てください。手前の橋から芝居小屋の並ぶ通りへ、道がまっすぐ奥へ吸いこまれていきます。屋根の線も、看板の傾きも、一点に向かって縮んでいる。当時の日本の絵師の多くが知らなかった描き方です。

見えるものを、見えるとおりに描く。応挙の画業は、この「おもちゃの絵」で身につけた目から始まりました。

その後、狩野派の絵師のもとで伝統的な技法も学びます。西洋の遠近法と、日本の筆づかい。二つを両手に持った若者は、30代で京都の注目株になっていきます。

後ろ盾になったのは、大津の円満院の門主・祐常や、京都の豪商・三井家でした。寺の高僧と大商人が、農家出身の絵師に次々と大きな仕事を任せる。応挙の絵は、身分を問わず「上手い」とわかる絵だったからです。

虎は毛皮から描いた。応挙の「写生」は、どこまでも本物を見ること

応挙の絵の特徴を一語で言うなら、「写生」です。

いまでは当たり前の言葉ですが、当時の絵師の修業は、手本となる名画を写すことが中心でした。応挙は違いました。草花、虫、鳥、魚を実際に目の前に置き、何冊ものスケッチ帳に描きためていきます。花びらの枚数、羽の重なり方、魚のうろこの並び。記録に近い細かさです。

ただし、見られないものもありました。

虎です。江戸時代の日本に、生きた虎はいません。応挙は虎の毛皮を手に入れて、その毛並みを徹底的に写しました。毛の一本一本は本物そっくり。ところが骨格や顔つきは、見たことがないので想像するしかない。そのため応挙の虎は、どこか大きな猫のような顔をしています。香川県の金刀比羅宮に残る虎の襖絵などで、その「猫っぽさ」を確かめることができます。

私はこの話が好きです。見えるものは徹底的に見る。見えないものは、見えたふりをしない。応挙の写生の誠実さが、猫顔の虎にかえって出ている気がします。

円山応挙『朝顔狗子図杉戸』、東京国立博物館
円山応挙『朝顔狗子図杉戸』、東京国立博物館

応挙がとくに得意としたのが、子犬です。

杉の板戸に描かれた上の絵では、白と茶の子犬がじゃれ合い、朝顔のつるにちょっかいを出しています。丸い体、短い足、ふわふわの毛。子犬の絵は応挙の人気商品で、たくさんの注文を受けました。「かわいい」を狙って描ける絵師は、当時そう多くありません。

では、幽霊はどうだったのか。

応挙の幽霊が怖いのは、「写生」で描かれた美人だから

冒頭の幽霊図に戻ります。

髪を長く垂らした女性が、うつむいている。着物は胸から下がしだいに薄くなり、裾は紙の地に溶けて消えていく。恨めしげな形相も、血も、柳の木もありません。ただ静かで、顔立ちが整っている。

怖さの正体は、そこにあります。

それ以前の幽霊の絵は、多くが芝居の挿絵や説話の一場面でした。筋書きのための記号としての幽霊です。応挙は、写生で鍛えた筆で、生きている人と同じように女性の顔を描きました。本当にそこにいそうな人が、足元だけ消えている。現実と地続きだから怖いのです。

この絵には、応挙が亡くした恋人(あるいは妻)の姿を描いたという伝説があります。確かな証拠はありませんが、それだけ「生きた人」に見えたということでしょう。

評判が評判を呼び、「応挙の幽霊」は一つのブランドになりました。弟子や後の絵師が描いた作品にも「伝応挙」の名がつけられ、各地の寺や旧家に伝わっています。足のない幽霊を始めたのは応挙ではない。けれど、それを日本中の「幽霊の姿」として定着させたのは、応挙の名前でした。

国宝『雪松図屏風』では、雪を1滴も塗っていない

円山応挙『雪松図屏風』(右隻)、三井記念美術館(国宝)
円山応挙『雪松図屏風』(右隻)、三井記念美術館(国宝)

応挙の代表作を一つだけ挙げるなら、国宝の『雪松図屏風』です。

雪をかぶった松の大木が、金色の空気の中に立っている。松の幹や葉は墨で描かれ、背景には金泥と金の砂子がまかれています。

では、雪はどう描いたのか。

答えは、何も塗っていない、です。雪に見える白い部分は、紙の地をそのまま残したもの。墨で松の形を描き、周りを金で包んだとき、残った紙の白が雪になる。描かずに描く。眼鏡絵で光と影を学んだ画家らしい、計算の仕事です。

大作は屏風だけではありません。兵庫県の日本海側、香住の大乗寺は「応挙寺」とも呼ばれます。寺の部屋という部屋の襖を、応挙と弟子たちが総出で描いたからです。修業時代の応挙をこの寺の住職が援助し、その恩返しだったと伝えられます。孔雀、松、群れ遊ぶ子どもたち。部屋を移るたびに絵の主題が変わり、襖を閉めると四方が一つの景色になるよう設計されています。

応挙は1795年、京都で亡くなりました。門下からは長沢芦雪や、のちに「四条派」を開く呉春が出て、その流れは明治以降の京都の日本画まで続いていきます。

よくある質問

Q. 円山応挙の幽霊画はどこで見られますか?
東京・谷中の全生庵は、落語家の三遊亭円朝が集めた幽霊画コレクションで知られ、応挙作と伝わる幽霊図も含まれています。公開は時期が限られるので、寺の公式情報を確認してください。

Q. 「円山派」とは何ですか?
応挙を祖とする京都の絵師の流派です。写生を基本にした、わかりやすく品のある画風が特徴で、応挙の弟子たちが受け継ぎました。

まとめ:応挙は「見えるとおりに描く」を京都に広めた

  • 足のない幽霊は応挙以前からあった。応挙は発明者ではなく、決定版を描いた人
  • 出発点は、おもちゃ屋で描いた遠近法の「眼鏡絵」
  • 実物を観察する「写生」を貫き、虎は毛皮から描いた
  • 幽霊が怖いのは、生きた人と同じ筆で整った顔を描いたから
  • 国宝『雪松図屏風』の雪は、紙の地を塗り残した白

実物を見るなら、東京・日本橋の三井記念美術館が所蔵する『雪松図屏風』が第一候補です。展示は毎年同じ時期とは限らないので、訪れる前に美術館の公式サイトで展示予定を確かめてください。屏風の前では、少し離れて立ち、雪の白が「紙のまま」であることを探してみてください。幽霊の足と同じく、応挙の絵は、描いていないところがいちばん雄弁です。

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