1曲10分は当たり前——フェラ・クティとアフロビートという武器

10分。
フェラ・クティの曲では、これでも短いほうです。代表曲の多くは10分を超え、30分近いものまであります。3分のポップスに慣れた耳には、常識外れの長さ。
ただ、順番が逆でした。曲が長いのではありません。止まらないリズムが先にあって、歌はその上に、あとから乗ってくるだけ。
ベースは同じフレーズを繰り返す。ギターは細かく刻む。ドラムは急がない。コードはほとんど変わらない。それが5分、10分と続くうちに、体のほうが先に降参して動き出します。
このリズムを、ナイジェリアの軍事政権は本気で恐れました。音楽がなぜ「武器」になったのか。リズムの側から追いかけます。
なぜ1曲10分を超えるのか——アフロビートのリズムの仕組み
アフロビートの曲は、たいてい歌なしで始まります。
まずリズム隊だけの演奏が数分。そこにホーンセクションが重なり、サックスやキーボードのソロが続く。歌が出てくるのは、始まって5分後ということもざらです。一度、歌が始まるまでの時間を計りながら聴いてみてください。
理由ははっきりしています。先に体を落とし、それから言葉を届けるため。フェラの歌詞は権力への批判そのものでしたが、説教ではなく、踊りながら口ずさめるコール&レスポンスの形で街に広がりました。歌は西アフリカの共通語であるピジン英語。国境を越えて意味が通じます。ラジオ向けに曲を短く編集することを、フェラは生涯嫌いました。
土台は、フェラの属するヨルバの人々の伝統リズムです。複数の太鼓が別々のリズムを同時に鳴らすポリリズム。そこにジェームス・ブラウンのファンク、ガーナ生まれの社交ダンス音楽ハイライフ、そしてジャズが折り重なります。

この配合は、ラゴスの路上だけでは生まれませんでした。経由地はロンドンです。
医者になるはずが音楽学校へ——ロンドンとジャズの回り道
フェラ・クティは1938年、ナイジェリア南西部の町アベオクタに生まれました。父は牧師で学校長、母は女性の権利運動を率いた活動家。教育熱心な名家です。
1958年、医学を学ばせるつもりでロンドンへ送り出されたフェラは、着いてから進路を変えます。入ったのはトリニティ音楽カレッジ。専攻はトランペットでした。

ロンドンでジャズに浸り、帰国後はハイライフとジャズを混ぜたバンド、クーラ・ロビトスで活動します。ただ、ジャズ寄りの凝った音は、故郷のダンスフロアではなかなか受けませんでした。
転機は1969年のアメリカ滞在でした。公民権運動を経たロサンゼルスで黒人解放運動の思想に触れ、アフリカ人としての音楽を作る決心を固めます。帰国したフェラは自分の音楽をアフロビートと名づけ、バンドをアフリカ’70と改名しました。
ただし、その音の心臓部を作ったのは、フェラひとりではありません。
トニー・アレン——「彼がいなければアフロビートは存在しない」
ドラマーのトニー・アレンは独学の人です。ジャズドラマーのアート・ブレイキーやマックス・ローチを手本に、ハイライフの演奏現場で腕を磨きました。
彼の叩き方は変わっています。強く叩かない。手数で圧倒しない。右手と左手、右足と左足が、それぞれ別の会話をしているように動く。ひとりでポリリズムを完結させるドラムです。初めて聴く人は、音量の小ささに驚くはずです。ロックのように叩きつけず、水面を撫でるように鳴らして、それでも全員を踊らせる。
フェラは「トニー・アレンがいなければ、アフロビートは存在しなかった」と語っています。バンドの音がどれだけ厚くなっても、アレンのドラムだけは軽やかなまま。10分を超える曲が最後まで重くならないのは、この足腰のおかげです。
では、その音楽はどこで鳴っていたのか。
聖地「シュライン」と、国家の中の独立国「カラクタ共和国」
1970年代のラゴス。フェラは自前のクラブ「シュライン(聖堂)」を構え、夜通しの演奏を続けました。ここはライブハウスであると同時に、演説の場であり、ヨルバの信仰の儀式の場でもありました。ステージには管楽器にギター、パーカッション、コーラス、ダンサーを含む大所帯の楽団。演奏は夜ふけに始まり、明け方まで途切れません。観光名所ではなく、ラゴスの働く人々が通う、生活の一部としての音楽でした。

さらにフェラは、家族とバンドが暮らす自宅の敷地を「カラクタ共和国」と名乗り、独立を宣言します。国家の中に、音楽家が勝手に建てた独立国。軍事政権との緊張は、後戻りできない所まで高まっていきました。
1976年、フェラは一線を越える曲を出します。
『Zombie』の代償——軍が焼いた家と、母の死
『Zombie』は、命令されるまま動く兵士をゾンビにたとえた曲です。ラゴスの街で、子どもまでがフレーズを口ずさむほど広まりました。
翌1977年2月、約1,000人の兵士がカラクタ共和国を襲撃します。建物は焼かれ、住人は暴行を受け、2階から投げ落とされたフェラの母は、その傷がもとで翌年亡くなりました。フェラは母の棺を軍の司令部の前まで運び、その出来事をまた曲にします。題名は『Coffin for Head of State(国家元首のための棺)』。
弾圧は続きましたが、フェラは国を出ませんでした。ラゴスに残り、演奏と発言を続け、1997年に58歳で亡くなります。葬列を見送る人の波はラゴスの街を埋め尽くしたと伝えられます。
「音楽は武器だ」。フェラが残したこの言葉は、比喩ではありませんでした。10分を超えるあのリズムは、恐怖で固まった体を踊りでほどくための、実用の道具だったことになります。
よくある質問
Q. 最初の1曲は何を聴けばいい?
『Zombie』をおすすめします。12分ほどありますが、イントロのギターのリフだけでアフロビートが何かは伝わります。歌詞の意味はあとから調べれば十分です。
Q. アフロビートと「アフロビーツ」は同じもの?
別物です。アフロビーツ(Afrobeats)は2010年代以降にナイジェリアやガーナから世界に広がったポップスの総称で、バーナ・ボーイやウィズキッドが代表格。フェラのアフロビート(Afrobeat)に敬意を払った名前ですが、音は別のジャンルです。
Q. 今もアフロビートを続けている人は?
フェラの息子のフェミ・クティとシェウン・クティがともに音楽家です。シェウンは父のバンド、エジプト80をそのまま引き継いで活動しています。
まとめ——今日やることは一つ
- アフロビートは、ヨルバのポリリズムにファンク・ハイライフ・ジャズを重ねたナイジェリア生まれの音楽
- 1曲10分超の長さは、体を先に動かし、言葉をあとから届けるための設計
- 心臓部はトニー・アレンのドラム。フェラいわく「彼がいなければ存在しなかった」
- フェラ・クティは軍事政権批判を歌い続け、家を焼かれても国を出なかった
私は初めて『Zombie』を聴いた夜、そのまま3回繰り返しました。12分が長いという感覚は、1回目の途中で消えます。
今日やることは一つだけ。『Zombie』を、途中で止めずに最後まで聴いてください。歌が出てくるまでの数分間、自分の首が勝手にリズムを取り始める瞬間を観察すること。それがアフロビートの入口です。
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