抽象絵画は「逆さまの一枚」から始まった——カンディンスキーと共感覚

ワシリー・カンディンスキー『コンポジションVII』1913年、トレチャコフ美術館(モスクワ)
ワシリー・カンディンスキー『コンポジションVII』1913年、トレチャコフ美術館(モスクワ)

夕暮れのミュンヘン。写生から帰った画家が、アトリエの扉を開けて立ちすくみます。

見たことのない絵が、壁に立てかけてある。何が描いてあるのかは、わからない。ただ、内側から光るように美しい。

近づいて、彼は気づきました。自分の絵でした。横倒しに、逆さまに置かれていただけ。

ワシリー・カンディンスキーは、この夜の体験をのちに回想しています。「何が描いてあるか」が消えた瞬間、絵はいちばん美しくなった。やがて「抽象絵画の父」と呼ばれる男の出発点です。

ただしこのとき、彼はまだ湖や騎手を描く普通の画家の一人でした。そもそも画家になったこと自体が、人生の予定外だったのです。

モネの『積みわら』と『ローエングリン』——30歳で法律を捨てるまで

カンディンスキー『青騎士』1903年。抽象に向かう前の彼は、こうした騎手の絵を描いていました
カンディンスキー『青騎士』1903年。抽象に向かう前の彼は、こうした騎手の絵を描いていました

カンディンスキーは、絵の英才教育を受けた人ではありません。1866年モスクワ生まれ。大学では法律と経済を学び、教壇に立つ話まで来ていた研究者でした。

転機は30歳の年に来ます。モスクワで開かれたフランス印象派の展覧会で、モネの『積みわら』の前に立ちました。

何の絵か、わからなかった。

カタログでようやく「積みわら」だと知り、彼は戸惑います。対象が読み取れないのに、絵そのものは強烈に記憶に残った。描かれた「もの」がなくても、絵は人を動かすのかもしれない。疑いの種が、ここで植えられました。

同じ頃、ボリショイ劇場でワーグナーの歌劇『ローエングリン』を聴きます。音が鳴った瞬間、目の前に色と線が見えたと本人は書き残しています。

彼は大学のポストを断り、絵を学ぶためミュンヘンへ移りました。30歳、画家としては遅すぎる出発です。

ただ、遅れてきたこの画家には、他の誰も持っていない耳がありました。

トランペットの黄色、チェロの青——音を聴くと色が見えた

カンディンスキーには、音を聴くと色が見える知覚がありました。今日「共感覚」と呼ばれる感覚です。

彼にとって色は、見るものであると同時に、鳴るものでした。1911年頃にまとめた著書『芸術における精神的なもの』では、鋭い黄色をトランペットに、深まっていく青をチェロやオルガンにたとえています。

1911年、ミュンヘンで作曲家シェーンベルクの演奏会を聴いた夜は決定的でした。調性という「ドレミの重力」を捨てた音楽を浴びて、彼はほどなく『印象III(コンサート)』を描きます。画面の黒い塊はグランドピアノ。あふれる黄色は、会場に鳴り響いた音そのものです。

音楽は、何も描き写していません。それでも人を泣かせ、踊らせる。

絵にも同じことができるはずだ。この確信は、作品のタイトルの付け方まで変えていきます。

『コンポジション』連作——生涯に10枚だけの「交響曲」

カンディンスキー『即興14』1910年。「即興」は楽器の即興演奏のように、一気に描かれた連作です
カンディンスキー『即興14』1910年。「即興」は楽器の即興演奏のように、一気に描かれた連作です

カンディンスキーは自分の作品を、音楽の言葉で3つに分けました。「印象」「即興」、そして「コンポジション(構成)」。

自然から受けた印象を描くのが「印象」、内側から湧いたものを一気に描くのが「即興」。時間をかけて構築する「コンポジション」は交響曲にあたり、生涯で10枚しか描かれていません。

頂点とされるのが、1913年の『コンポジションVII』。縦2メートル、横3メートルの大画面です。30点を超える習作を重ねた末、本番のカンバスは数日で描き上げられたと伝えられます。長い作曲と、短い演奏。手順まで音楽でした。

冒頭の画像をもう一度見てください。中央の渦から、色が四方へ流れ出していきます。

私は初めてこの絵を見たとき、騒がしいだけの絵だと思いました。数分眺めるうち、渦に目が吸い込まれて、印象が変わった。何の絵かはわからないままなのに、「静かな絵か、激しい絵か」と聞かれれば即答できます。

その「即答できる」という事実が、彼の発見したものでした。

もっとも、ここへ一人でたどり着いたわけではありません。ミュンヘンには仲間がいました。

青が好きで、騎手が好きだった——「青騎士」の仲間たち

『青騎士』年刊誌の表紙のための習作(1911年)。グループの名前を、そのまま騎手の姿で描いています
『青騎士』年刊誌の表紙のための習作(1911年)。グループの名前を、そのまま騎手の姿で描いています

1911年、カンディンスキーは画家フランツ・マルクらとグループ「青騎士(ブラウエ・ライター)」を結成します。

名前の由来は、あっけないものです。二人とも青が好きで、マルクは馬が、カンディンスキーは騎手が好きだったから。本人がのちにそう語ったと伝えられます。

彼らは展覧会のほかに、『青騎士』という年刊誌を編みました。ページには同時代の絵画だけでなく、子どもの絵、各地の民俗芸術、シェーンベルクの楽譜まで並びます。ジャンルの壁を無視して、「内なる響き」があるものだけを集める。カンディンスキーの考えを、そのまま本にした一冊です。

運動は長く続きませんでした。第一次世界大戦が始まり、マルクは戦地で亡くなります。ロシア国籍のカンディンスキーも、ドイツを離れざるをえませんでした。

それでも彼の考えは消えません。戦後、今度は教室で次の世代に手渡されていきます。

バウハウスの教壇へ——感覚を、誰でも学べる理論にする

1922年、カンディンスキーはドイツの造形学校バウハウスに教師として招かれます。デザインと建築の歴史を変えたあの学校で、彼が受け持ったのは色と形の基礎でした。

授業は感覚まかせではありません。三角形にはどの色が合うか、円にはどの色か。学生にアンケートまで取って対応関係を確かめ、1926年に理論書『点と線から面へ』をまとめます。音から始まった直感を、誰にでも学べる言葉に翻訳する。晩年の仕事は、その一点に注がれました。

1933年、ナチス政権の圧力でバウハウスは閉校します。彼の作品は「退廃芸術」の烙印を押され、本人はフランスへ移りました。1944年、パリ郊外で死去。78歳でした。

没後70年が過ぎた今、彼の作品はパブリックドメインになり、誰でも自由に高精細画像を眺められます。あの夕暮れのアトリエの体験を、画面越しに試せる時代です。

よくある質問

Q. 同じ抽象画でも、モンドリアンとはどう違うのですか?
同時代に抽象へたどり着いたモンドリアンは、世界を垂直・水平の線と三原色まで削ぎ落としました。定規で引いたような静けさが持ち味です。カンディンスキーは反対に、音楽を手がかりとして、自由な形と色を画面いっぱいに鳴らします。「冷たい抽象」と「熱い抽象」という対比で語られることもあります。

Q. カンディンスキーの作品はどこで見られますか?
ミュンヘンのレンバッハハウス美術館、パリのポンピドゥー・センター、ニューヨークのグッゲンハイム美術館などがまとまった数を所蔵しています。『コンポジションVII』はモスクワのトレチャコフ美術館所蔵です。展示の有無や会期は、各館の公式サイトで確認してください。

Q. 抽象画は、何が「わかれば」いいのですか?
わからなくて大丈夫です。カンディンスキー自身が、絵を音楽のように受け取ってほしいと考えていました。曲を聴くとき、私たちは正解を探しません。速いか遅いか、明るいか暗いか。体の反応だけ拾えば十分です。

まとめ:逆さまの絵に、もう一度会いに行く

  • 法学者の卵だったカンディンスキーは、モネの『積みわら』と『ローエングリン』で進路を変えた
  • 逆さまに置かれた自分の絵の美しさが、「対象のない絵」への確信になった
  • 音が色に見える共感覚から、『即興』『コンポジション』という音楽の名を持つ連作が生まれた
  • 「青騎士」とバウハウスを通じて、一人の感覚は運動になり、理論になった

今日やることは一つ。『コンポジションVII』の画像を開いて、3分だけ黙って眺めてください。何の絵かは考えない。あの夕暮れにカンディンスキーが浴びた光を、少しだけ追体験できます。

関連アイテム

この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。