音楽は家具でいい——エリック・サティ、同じスーツ7着と傘100本の作曲家

エリック・サティ(1920年ごろの肖像写真)
エリック・サティ(1920年ごろの肖像写真)

同じ灰色のビロードのスーツが、7着。

1925年、パリ郊外アルクイユの小さな部屋で、エリック・サティが亡くなったあと、友人たちが初めてその部屋に入りました。27年間、誰一人として招き入れられなかった部屋です。中にあったのは、7着の同じスーツ、100本を超える傘、壊れて音の出ないピアノが2台、そしてピアノの後ろに落ちていた未発表の楽譜。

住んでいたのは、『ジムノペディ』を書いた人です。

カフェで、ドラマで、CMで流れるあの静かなピアノ曲。あれを書いた作曲家は、音楽院で「いちばん怠け者の生徒」と呼ばれ、信者一人の教会を自分で作り、音楽を「家具」にしようとしました。変人の逸話は山ほどあります。ただ、逸話を並べただけでは、なぜ今この人の曲がこんなに流れているのかはわかりません。

順に、7つの場面で追います。

音楽院で「いちばん怠け者」——サティは19歳で学校を捨てた

サティは1866年、フランス北部の港町オンフルールに生まれました。

13歳でパリ音楽院に入りますが、成績は最低クラス。教師の一人は彼を「クラスでいちばん怠け者の生徒」と評したと伝えられます。本人も学校を嫌い、まともに通わず、やがて追い出されるように去りました。

学校が教える「正しい音楽」を、この人は最初から信じていませんでした。

『ジムノペディ』は22歳の作品——静かすぎる3曲の正体

『ジムノペディ』は1888年、サティが22歳のときの作品です。

3曲からなる短いピアノ曲。ゆっくりした3拍子の伴奏の上に、途切れ途切れの旋律が浮かびます。盛り上がりがなく、終わりも唐突。当時の音楽が「感情を大きく動かす」ことを目指していた時代に、感情を動かさない音楽を書いた。

題名は、古代ギリシャの若者の踊りに由来すると言われますが、曲に踊りの要素はありません。

友人だったドビュッシーが、後にこのうち2曲を管弦楽用に編曲しています。無名の若者の曲を、当時すでに名の知れた作曲家が広めた形です。

この曲を書いたころ、サティが働いていたのは、モンマルトルのキャバレーでした。

モンマルトルの「黒猫」でピアノを弾く——キャバレーと信者1人の教会

テオフィル・スタンラン『黒猫(ル・シャ・ノワール)』のポスター、1896年
テオフィル・スタンラン『黒猫(ル・シャ・ノワール)』のポスター、1896年

上のポスターの店です。

「黒猫(ル・シャ・ノワール)」。詩人や画家が集まる、モンマルトルのキャバレー。サティはここでピアノ弾きとして雇われ、酒場の騒音の中で伴奏を弾いていました。19世紀末のパリの、いちばん騒がしい場所で、いちばん静かな曲を書いた人の職場です。

この時期の逸話は、どれも常識の外にあります。

自分で教会を作りました。名前は「導き手イエスの芸術主教会」。信者は自分一人。教会の名で、批評家に破門状を送りつけていました。同じころ、画家シュザンヌ・ヴァラドンと恋に落ちます。半年ほどで終わったこの恋が、生涯でただ一度の恋愛だったと伝えられます。ヴァラドンが描いたサティの肖像画は今も残っており、それが上の写真より少し若い、頬の赤い青年の顔です。

シュザンヌ・ヴァラドン『エリック・サティの肖像』1892〜93年(Photo: Yann Caradec / CC BY-SA 2.0)
シュザンヌ・ヴァラドン『エリック・サティの肖像』1892〜93年(Photo: Yann Caradec / CC BY-SA 2.0)

1898年、サティはパリを離れ、郊外のアルクイユへ移ります。冒頭の、あの部屋です。

毎日10キロ歩いて通った男——アルクイユの部屋と灰色のスーツ

アルクイユからパリまで、サティは毎日歩きました。

片道およそ10キロ。夜遅くまでパリのカフェで過ごし、真夜中に歩いて帰る。ポケットには金づち。暗い道の護身用だったと伝えられます。灰色のビロードのスーツを着ていたため、近所では「ビロードの紳士」と呼ばれました。7着買ったのは、同じ服を毎日着るためです。

部屋には誰も入れませんでした。

友人も、恋人も、家主も。サティが住んでいるあいだ、その扉の内側を見た人はいません。だから死後に部屋を開けた友人たちは、傘の山と、ピアノの後ろの楽譜に、初めて出会いました。そこから出てきた曲が、後に出版されています。

40歳を前にして、この男はもう一度学校に戻ります。

39歳で学生に戻る——そして『パラード』の騒動

1905年、サティは39歳で、スコラ・カントルムという音楽学校に入学しました。

『ジムノペディ』からすでに17年。若い学生に混じって、対位法という古典的な作曲の技術を一から学び直します。周囲は驚きました。学校を捨てた怠け者が、今さら学校へ。本人は「自分に足りないものを埋めに来た」という態度で、3年通って修了証を得ています。

そして1917年、51歳のサティは、パリでいちばんの騒ぎを起こします。

バレエ『パラード』。台本は詩人のジャン・コクトー、舞台と衣装はピカソ、上演はロシア・バレエ団。サティの楽譜には、タイプライター、サイレン、ピストルの音が指定されていました。客席は騒然となり、批評家との論争は裁判沙汰にまで発展したと伝えられます。

サティの楽譜は、指示の書き方も普通ではありません。「歯の痛いナイチンゲールのように」。「舌の上で軽く」。奏者を笑わせるための言葉が、演奏記号の代わりに書き込まれています。

そのサティが、最後に考えたのが「家具の音楽」でした。

「聴かないでください」——家具の音楽は、なぜ失敗したのか

1920年、サティは友人の作曲家ミヨーと、ある実験をします。

画廊で催しの休憩時間に、音楽を演奏する。ただし、聴いてはいけない。壁紙や椅子のように、そこにあるだけで、誰も注意を向けない音楽。サティはこれを「家具の音楽」と名づけました。

結果は、失敗でした。

演奏が始まると、客は話をやめて音楽に聴き入ってしまった。サティは客のあいだを歩き回り、「話してください!歩き回ってください!聴かないでください!」と叫んだと伝えられます。音楽を聴かないでくれと頼んで回った作曲家は、歴史上この人だけです。

ところが、この失敗した考えは、半世紀後に生き返ります。

サティが死んで、ジムノペディが生き返った——アンビエントへの道

サティは1925年、59歳で亡くなりました。肝臓を壊していました。

生前、大きな名声はありませんでした。それでも若い作曲家の一団は彼を旗印にし、後の世代はもっと遠くから彼を見つけます。1970年代、イギリスの音楽家ブライアン・イーノは、空港や部屋で「聞き流せる音楽」を作り、アンビエント・ミュージックと呼びました。イーノが先駆者として挙げた名前の一つが、サティの家具の音楽です。

私は、『ジムノペディ』がカフェで流れているのを聞くたび、少しおかしくなります。聴かないでくれと言った人の曲が、いちばん聞き流される曲になった。サティの実験は、100年遅れで成功したのです。

よくある質問

Q. 『ジムノペディ』と『グノシエンヌ』は何が違いますか?
どちらもサティの初期のピアノ曲です。『ジムノペディ』は3拍子で穏やか、『グノシエンヌ』は小節線がなく、東洋風の旋律で少し不安な響きがあります。両方とも短いので、続けて聴くと違いがはっきりします。

Q. サティの曲で、他に有名なものは?
『ヴェクサシオン』は短い曲を840回繰り返すよう指示があり、通しで演奏すると半日以上かかります。『梨の形をした3つの小品』は、「形がない」と批評されたことへの皮肉で付けた題名だと伝えられます。

まとめ:静かな曲を書いた、騒がしい人

  • 音楽院で「いちばん怠け者」と呼ばれ、22歳で『ジムノペディ』を書いた
  • モンマルトルのキャバレー「黒猫」で働き、信者一人の教会を作った
  • アルクイユの部屋に27年間誰も入れず、死後に傘100本とスーツ7着が見つかった
  • 39歳で学校に戻り、51歳の『パラード』でパリを騒がせた
  • 「聴かないでください」と頼んだ家具の音楽は、半世紀後にアンビエントとして生き返った

冒頭の部屋に戻ります。7着の同じスーツと100本の傘は、毎日同じことを繰り返した人の跡です。『ジムノペディ』の伴奏も、最初から最後まで同じ動きを繰り返します。あの静けさは、あの部屋の静けさです。

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