5週間で書いた『ラプソディ・イン・ブルー』——ガーシュウィンは新聞で自分の新曲を知った

ジョージ・ガーシュウィン(撮影: カール・ヴァン・ヴェクテン、1937年)
ジョージ・ガーシュウィン(撮影: カール・ヴァン・ヴェクテン、1937年)

1924年1月、ニューヨークのビリヤード場。

球を突いている25歳の作曲家の横で、兄が新聞を読んでいます。芸能欄に、こんな記事が出ていた。「ジョージ・ガーシュウィンはジャズ協奏曲を作曲中である。2月12日の演奏会で初演される」。

作曲家本人は、そんな曲を書いていませんでした。

演奏会まで、5週間ほど。人気バンドリーダーのポール・ホワイトマンが、以前の立ち話を本気にして発表してしまったのです。ガーシュウィンはその夜、断るか書くかを決めなければならなかった。

書きました。それが『ラプソディ・イン・ブルー』です。

「ジャズ協奏曲を作曲中」——ビリヤード場で兄が読み上げた記事

ジョージ・ガーシュウィンは1898年、ブルックリンの移民の家に生まれました。

12歳のとき、家にピアノが来ます。兄アイラのために買ったものでしたが、弾き始めたのは弟でした。15歳で学校をやめ、楽譜出版社の「ソング・プラガー」になります。店で客に新曲を弾いて聴かせ、楽譜を売る仕事です。週給15ドル。

21歳で書いた『スワニー』を、当時の大スターだった歌手アル・ジョルソンが舞台で歌い、大ヒットになります。楽譜とレコードが売れ、ガーシュウィンはブロードウェイの作曲家になりました。作詞は多くの場合、兄のアイラ。兄弟で曲を作る形は、この後ずっと続きます。

ただ、当時のガーシュウィンは「流行歌の人」です。クラシックの演奏会場で弾かれる曲は書いていない。ホワイトマンの企画は、そこを狙っていました。演奏会の題は「現代音楽の実験」。ジャズを、まじめな音楽として聴かせる、という宣言です。

新聞で自分の新曲を知った作曲家は、翌週から書き始めます。

ボストン行きの列車の音から生まれた「アメリカの万華鏡」

曲の骨組みが浮かんだのは、列車の中でした。

1月初め、ガーシュウィンは自分のミュージカルの公演のためにボストンへ向かいます。後に本人が語ったところでは、線路のガタゴトという鋼鉄のリズムを聴いているうちに、曲の全体が頭に見えたといいます。始まりから終わりまで。彼はそれを「アメリカの音楽の万華鏡」と呼びました。

移民の国のごちゃまぜ、都会の熱、ブルースの青。

ニューヨークに戻ると、2台のピアノ用の楽譜として書き始めました。3週間ほどでピアノ譜が仕上がり、オーケストラの編曲はホワイトマン楽団の編曲家ファーディ・グローフェが担当します。ガーシュウィンはまだ、大きな楽団のために書く技術を持っていませんでした。

題名は当初「アメリカン・ラプソディ」だったと伝えられます。

「ブルー」に変えたのは兄アイラ。画家ホイッスラーが絵に「青と緑のノクターン」のような題をつけていたのを見て、思いついたと言われています。ブルースの青と、絵の題名の青。

こうして曲はできた。ところが、あの冒頭だけは、楽譜どおりではありません。

冒頭のクラリネットは、リハーサルの冗談だった

ポール・ホワイトマン楽団を描いた広告図版(1920年)
ポール・ホワイトマン楽団を描いた広告図版(1920年)

『ラプソディ・イン・ブルー』の始まりは、クラリネット1本です。

低い音から震えながら上がり、一気に高い音まで滑り上がる。あの音を聴けば、誰でもこの曲だとわかります。ところがガーシュウィンが書いた楽譜では、この部分は17個の音を順に上がっていく音階でした。

滑らせたのは、クラリネット奏者のロス・ゴーマンです。

リハーサルで、ゴーマンは冗談のつもりで音階を一気に滑り上げて吹きました。ジャズ奏者の遊びです。ガーシュウィンはそれを聴いて笑い、本番でもそのまま吹くように頼んだ。できるだけ「泣くように」と注文をつけて。

1本の冗談が、20世紀でいちばん有名な曲の始まりになりました。

そしてピアノの独奏部分は、初演の時点でまだ全部は書かれていませんでした。

1924年2月12日、エオリアン・ホール——ラフマニノフが客席にいた夜

ニューヨークのエオリアン・ホール(当時の写真)
ニューヨークのエオリアン・ホール(当時の写真)

2月12日、リンカーンの誕生日。ニューヨークのエオリアン・ホール。

ホワイトマンの「実験」は、20曲以上を並べた長い演奏会でした。客席には作曲家ラフマニノフ、ヴァイオリニストのクライスラーら、当時の音楽界の顔ぶれがいたと伝えられます。前半は退屈で、席を立つ客もいた。

『ラプソディ・イン・ブルー』は、終わり近くに置かれていました。

クラリネットが滑り上がる。ピアノに座っているのは作曲家本人。独奏の部分には楽譜が書かれていない箇所があり、ガーシュウィンはその場で弾きました。楽団の入るタイミングは、指揮のホワイトマンにうなずいて合図したといいます。

演奏時間は約16分。終わると、客席が沸きました。

批評は割れました。構成がゆるい、つぎはぎだ、と書いた批評家もいます。それでも曲はその年のうちに、ホワイトマン楽団とガーシュウィン自身のピアノでレコードになりました。当時のレコードは片面4分ほどしか入らないため、曲を短くして両面に分けて収録しています。この録音は今も配信で聴けます。ガーシュウィンは「流行歌の人」から「アメリカの作曲家」になりました。25歳です。

「二流のラヴェルより、一流のガーシュウィン」——38歳で終わった続き

『ラプソディ・イン・ブルー』の楽譜表紙(ハームズ社、1924年)
『ラプソディ・イン・ブルー』の楽譜表紙(ハームズ社、1924年)

成功のあと、ガーシュウィンは「ちゃんと」学ぼうとしました。

翌年にはピアノ協奏曲を書き、今度は自分でオーケストラの編曲をしています。1928年にはパリへ渡り、ラヴェルに弟子入りを願い出た。そのときの答えとして、こんな言葉が伝えられています。「なぜ二流のラヴェルになりたがるのか。あなたは一流のガーシュウィンなのに」。

誰の言葉かは諸説あります。ただ、言い当ててはいます。

パリ滞在から生まれたのが『パリのアメリカ人』。1935年にはオペラ『ポーギーとベス』を書きました。流行歌とクラシックとジャズを、一人の人間が全部やった。

1937年、ガーシュウィンは脳腫瘍で亡くなります。38歳でした。

新聞で自分の新曲を知ってから、13年。列車の音から生まれた16分の曲は、その後、映画で、飛行機の宣伝で、オーケストラの定番として、鳴り続けています。

よくある質問

Q. 『ラプソディ・イン・ブルー』はクラシックですか、ジャズですか?
どちらとも言えます。形はクラシックの狂詩曲、素材はジャズとブルース。作曲者自身は「アメリカの音楽の万華鏡」と呼びました。

Q. 最初に聴くならどの演奏がいいですか?
1924年の初演の形(ジャズバンド版)と、後に作られたフルオーケストラ版があります。どちらも配信で聴けます。冒頭のクラリネットの滑り方を、いくつかの演奏で聴き比べるのが楽しい聴き方です。

Q. 演奏時間はどれくらいですか?
演奏によりますが、おおむね15〜18分です。

まとめ:線路の音が聞こえたら

  • 1924年1月、ガーシュウィンは新聞記事で自分が「ジャズ協奏曲を作曲中」だと知った
  • 曲の全体はボストン行きの列車の中で浮かび、5週間ほどで初演にこぎつけた
  • 冒頭のクラリネットの滑り上がりは、奏者ロス・ゴーマンがリハーサルで吹いた冗談だった
  • 2月12日のエオリアン・ホール初演で、ピアノの独奏は本人がその場で弾いた
  • 「流行歌の人」だった25歳は、この曲でアメリカの作曲家になり、38歳で世を去った

次に列車に乗ったら、線路の音を少しだけ聴いてみてください。ガタン、ガタン。ガーシュウィンが1924年の1月に聴いていたのは、その音です。そこから16分の曲が始まりました。

関連アイテム

この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。

※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。