少年院でコルネットを渡された——ルイ・アームストロングが『この素晴らしき世界』を歌うまで

1912年の大晦日、ニューオーリンズの裏通り。
11歳の少年が、家から持ち出した拳銃を夜空に向けて撃ちました。新年を祝う、ただの悪ふざけです。ところが近くにいた警官に捕まり、そのまま少年院に送られました。
少年院には、ブラスバンドがありました。
教官が少年に渡したのは、コルネットという小さなラッパです。少年はそれを吹き、1年半後に出所するときには、バンドの隊長になっていました。
その少年が、ルイ・アームストロングです。
1912年の大晦日、拳銃を空に撃った少年
ルイ・アームストロングは1901年、ニューオーリンズの貧しい地区に生まれました。
父親は生まれてすぐに家を出て、母親は家を空けがち。ルイは幼いころから石炭を売り、新聞を売り、ユダヤ系のくず屋の一家に雇われて荷車を押しました。街には歓楽街があり、酒場から音楽が流れてくる。ラッパは、そこで聴いた憧れの音でした。
少年院での生活が、彼に楽器を与えます。
正式には「有色人種の浮浪少年の家」という施設です。楽隊の教官ピーター・デイヴィスが、素行の悪い新入りに最初はタンバリンを、次にドラムを、そしてコルネットを持たせた。ルイはあっという間に上達し、施設のバンドがパレードで街を回るときには、先頭で吹くようになります。
1914年、13歳で出所。
楽器は返さなければならなかったので、彼は石炭を売って金をため、質屋で中古のコルネットを買いました。街の酒場で吹き始めた少年に、最初に目をかけたのが、当時ニューオーリンズでいちばんのコルネット奏者でした。
「キング」に見出され、蒸気船で楽譜を覚えた
ジョー・オリヴァー。街の人は「キング・オリヴァー」と呼んでいました。
オリヴァーはこの少年に手ほどきをし、自分の仕事を回すようになります。1918年にオリヴァーがシカゴへ移ると、ルイは彼の後釜として街のバンドに入りました。17歳です。
そのころ、ミシシッピ川を上り下りする蒸気船で演奏する仕事も始めます。
船のバンドは、楽譜どおりに演奏することを求めました。ルイはそれまで、耳で覚えて吹いていた。船の上で楽譜を読むことを覚え、正確に、そして大きな音で吹く技術を身につけます。
1922年、シカゴのオリヴァーから電報が届きました。「来い」。
21歳のルイは、師匠のバンドの2番コルネットとしてシカゴへ向かいます。そこで出会ったのが、バンドのピアニストのリル・ハーディン。音楽学校で学んだ女性で、二人は結婚し、彼女はルイに「あなたは2番手でいる人じゃない」と背中を押し続けました。
その言葉が、ジャズを変える5人組を生みます。
シカゴの5人——『ヒービー・ジービーズ』で歌詞を落とした夜

1925年、ルイは自分の名前でレコードを作り始めました。
「ルイ・アームストロングと彼のホット・ファイヴ」。ライブ活動をほとんどしない、録音のためのグループです。トロンボーン、クラリネット、バンジョー、ピアノのリル、そしてルイ。シカゴのスタジオで、3年間に何十曲も吹き込みました。
その中の1曲、1926年の『ヒービー・ジービーズ』に、有名な逸話があります。
歌の途中で、ルイが歌詞の書かれた紙を床に落とした。仕方なく、意味のない音で歌い続けた。「スキャット」と呼ばれる歌い方は、この事故から広まった、という話です。本人がそう語っています。作り話だと考える研究者もいますが、レコードを聴けば、途中からたしかに言葉ではない声が始まります。
言葉を失った瞬間に、声が楽器になった。
ルイ・アームストロングの歌は、ここから始まります。そしてラッパのほうでは、ジャズそのものを作り変える12秒が待っていました。
『ウエスト・エンド・ブルース』の最初の12秒——ジャズがソロの音楽になった

1928年に録音された『ウエスト・エンド・ブルース』は、ラッパ一本で始まります。
伴奏なし。トランペットが高く駆け上がり、ゆっくり落ち、また跳ねる。12秒ほどの前奏です。ここには、それまでのジャズになかったものが入っていました。集団で同時に演奏する音楽から、一人の演奏家が語る音楽への転換です。
ニューオーリンズのジャズは、みんなで一斉に吹く音楽でした。
コルネット、クラリネット、トロンボーンが同時に旋律を絡ませる。ルイのホット・ファイヴの録音で、その中心が一人のソロに移っていきます。曲の主役は、作曲家でも編成でもなく、今この瞬間に吹いている人間だ、と。以後のジャズは、この前提の上に立っています。
私は、この12秒を聴くたびに、少年院のパレードの先頭を思い出します。
楽器はコルネットから、より輝く音のトランペットに変わっていました。あだ名は「サッチモ」。大きな口を意味する呼び名です。
「サッチモ大使」と、大統領を怒らせた日
1930年代以降、ルイは映画に出て、大きな楽団を率いて、世界中を回ります。
1950年代にはアメリカ政府の文化使節として各国を訪れ、「サッチモ大使」と呼ばれました。1953年には日本にも来ています。にこやかで、ハンカチで汗を拭き、しわがれた声で歌う。誰にでも好かれる姿でした。
ところが1957年、彼は政府を公然と批判します。
南部アーカンソー州リトルロックで、黒人の生徒の高校入学を州知事が妨害する事件が起きた。ルイは「南部で私の同胞にしていることを見れば、政府は地獄に行けばいい」と記者に語り、予定されていたソ連公演を断りました。笑顔の大使が、初めて怒りを見せた瞬間です。
62歳でビートルズを抜き、『この素晴らしき世界』を歌った

1964年、62歳のルイが歌った『ハロー・ドーリー!』が、ヒットチャートの1位になりました。
その年、1位を独占していたのはビートルズです。それを、少年院でコルネットを渡された男が押しのけた。当時、1位を取った最年長の歌手でした。
1967年には『この素晴らしき世界』を録音します。
木々の緑、赤いバラ、赤ん坊の泣き声。しわがれた声が、ゆっくりと世界の美しさを数えていく歌です。アメリカでは最初あまり売れず、イギリスで先にヒットしました。ベトナム戦争のさなかで、この歌を甘すぎると言う人もいた。
ルイは1971年、69歳で亡くなります。
『この素晴らしき世界』がアメリカで広く知られるようになったのは、死後、1980年代の映画で使われてからです。今では、彼の名前を知らない人でも、この歌は知っています。
よくある質問
Q. 最初に聴くならどの曲ですか?
『ウエスト・エンド・ブルース』の冒頭12秒と、『この素晴らしき世界』の2曲を並べて聴くのがおすすめです。ラッパの人と歌の人が、同じ人だとわかります。
Q. 「サッチモ」とはどういう意味ですか?
「サッチェルマウス(かばんのような大きな口)」を縮めた呼び名です。口が大きかったことから、若いころにつけられました。
Q. ルイ・アームストロングは日本に来ましたか?
1953年に初めて来日し、その後も複数回公演しています。
まとめ:あのしわがれ声は、少年院のラッパから始まった
- 1912年の大晦日に拳銃を撃って少年院に入り、そこでコルネットを渡された
- 師匠キング・オリヴァーに呼ばれてシカゴへ行き、妻リル・ハーディンに背中を押された
- ホット・ファイヴの録音で、歌詞を落として生まれたスキャットと、ソロ中心のジャズを作った
- 「サッチモ大使」として世界を回りながら、1957年には政府を公然と批判した
- 62歳でビートルズを抜き、『この素晴らしき世界』は死後に世界の歌になった
『この素晴らしき世界』のしわがれ声を、優しい老人の声だと思って聴いてきたなら、一度だけ聴き方を変えてみてください。あれは、11歳で拳銃を撃ち、少年院でラッパを渡された男が、60年かけてたどり着いた声です。
関連アイテム
この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。
※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。
