ドラクロワ『民衆を導く自由の女神』はフランス革命の絵ではない——1830年、パリの「3日間」を描いた一枚

この絵は、フランス革命の絵ではありません。
三色旗を掲げた女性が、銃を持った民衆を率いて進む。世界史の教科書で「フランス革命」のページに載っていた、と記憶している人は多いはずです。バスティーユ襲撃の1789年。マリー・アントワネットの時代。
違います。描かれているのは、それから41年後の出来事です。
しかも画家本人は、この戦いに参加していません。
『民衆を導く自由の女神』が描いたのは1830年の七月革命
舞台は1830年7月のパリです。
フランス革命とナポレオンの時代が終わり、フランスには王政が戻っていました。国王シャルル10世は、時計の針を革命前に戻そうとします。7月、新聞の出版の自由を止め、議会を解散する命令を出しました。
パリの市民は、3日で答えを出します。
7月27日から29日。学生、職人、商店主たちが石畳をはがして街路にバリケードを築き、国王の軍隊と撃ち合いました。シャルル10世は国外へ逃亡。フランスで「栄光の3日間」と呼ばれる七月革命です。
絵の右奥を見てください。煙の向こうに、ノートルダム大聖堂の2本の塔が小さく見えます。塔の上には、米粒のような三色旗。王政のもとで禁じられていた革命の旗が、パリの真ん中に戻ってきた瞬間です。
戦わなかったドラクロワは、3か月で絵を仕上げた

そのとき、画家ウジェーヌ・ドラクロワは32歳でした。
すでに問題作を次々に発表していた、若手の旗手です。当時の絵画の主流は、なめらかな輪郭と整った構図を重んじる「新古典主義」。ドラクロワは激しい色と動き、感情のうねりを画面に持ちこみました。のちに「ロマン主義」と呼ばれる流れの中心人物です。
6年前には、ギリシャ独立戦争で起きた住民虐殺を描いた『キオス島の虐殺』を発表しています。遠い国のニュースを、縦4メートルを超える大作に仕立てた。批評家の一人は「絵画の虐殺だ」と皮肉りました。神話や古代史ではなく、いま起きている事件を描く。それがドラクロワの流儀でした。
ただ、目の前で起きた3日間の市街戦には加わっていません。
その年の秋、彼は兄への手紙にこう書きます。「祖国のために戦わなかったのだから、せめて祖国のために描こう」。
後ろめたさが、筆を動かしました。
制作期間はおよそ3か月。縦2.6メートル、横3.25メートルの大画面です。翌1831年、国の公式展覧会であるサロンに出品されました。
女神、少年、シルクハット——『民衆を導く自由の女神』の登場人物

画面の人物を、一人ずつ見ていきます。
- 中央の女性:実在の人物ではありません。「自由」という考えを人の姿にした存在で、フランスでは「マリアンヌ」と呼ばれます。頭の赤い帽子は、古代ローマで解放された奴隷がかぶったフリジア帽。左手には、銃剣つきの歩兵銃
- 右の少年:両手に拳銃、肩から弾薬かばん。パリの街の子どもです。ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』に出てくる浮浪児ガヴローシュは、この少年から着想されたと言われています
- シルクハットの男:身なりのよい市民。ドラクロワの自画像だという説が長く語られてきましたが、現在は疑問視されています
- サーベルの男:作業着に前掛け。工場や工房で働く労働者です
- 足もとに倒れた人々:右手前は国王軍の兵士。敵と味方が、同じ地面に横たわっています

帽子に注目すると、この絵の設計が見えてきます。
シルクハット、ベレー帽、布の頭巾、学生の二角帽。帽子は当時、身分をあらわす記号でした。ドラクロワは、あらゆる階級の人間を一つのバリケードに並べたのです。
構図は三角形。頂点は旗を握る女神の右手、底辺は死者たち。
下から上へ、死から自由へと視線がのぼる仕掛けです。赤・白・青の三色は、旗だけでなく、女神の足もとにひざまずく男の服にも繰り返されています。
「汚い女神」と叩かれ、国に買われて、しまいこまれた
評判はどうだったのか。散々でした。
批評家たちが怒ったのは、女神の描き方です。女神といえば、大理石のように白くなめらかな肌で描くのが約束でした。ドラクロワの女神は日に焼け、腕はたくましく、わきには毛まで描かれている。「汚い」「魚売りの女のようだ」と書かれました。
神話の住人を、硝煙の中に立たせたこと。それがこの絵の新しさであり、嫌われた理由でした。
絵は、革命で王位についた新国王ルイ・フィリップの政府が3,000フランで買い上げます。宮殿に飾り、自分の王位が民衆の革命から生まれたことを示すためでした。
ところが、すぐに壁から外されます。
民衆が武器を取って王を倒す絵です。新しい王にとっても、毎日眺めたい絵ではありませんでした。作品は倉庫にしまわれ、一時は画家のもとへ返されます。ルーヴル美術館に落ち着いたのは1874年。ドラクロワが死んで11年後のことです。
紙幣、自由の女神像、アルバムジャケット——ドラクロワの女神のその後
しまいこまれた絵は、やがてフランスそのものの顔になります。
かつての100フラン紙幣には、ドラクロワの肖像とこの女神が刷られていました。ニューヨークの自由の女神像を設計した彫刻家バルトルディも、この絵から着想を得たと言われています。イギリスのバンド、コールドプレイは2008年のアルバムのジャケットにこの絵を使いました。
私がこの絵でいちばん引っかかるのは、女神の顔の向きです。
体は正面へ進んでいるのに、顔だけが横を向き、後ろの人々を振り返っている。ついて来ているか、確かめるように。先頭に立つ者の一瞬の不安まで、ドラクロワは描いたのだと思います。
作品は2024年に修復を終え、黄ばんだニスの下から、空の青と旗の赤が戻ってきました。
よくある質問
Q. 『レ・ミゼラブル』の舞台と同じ革命ですか?
別の出来事です。『レ・ミゼラブル』のバリケードの場面は、七月革命の2年後、1832年にパリで起きた六月暴動を描いています。
Q. なぜ女神は胸をはだけているのですか?
古代ギリシャ・ローマの女神像の伝統にならった表現です。実在の女性ではなく、「自由」という考えを人の姿にした存在であることを示しています。
Q. どこで見られますか?
パリのルーヴル美術館が所蔵しています。展示状況は公式サイトで最新情報を確認してください。
まとめ:「フランス革命の絵」ではなく、「次の革命」の絵
- 描かれているのは1789年のフランス革命ではなく、1830年の七月革命
- ドラクロワは戦いに参加せず、「せめて祖国のために描こう」と約3か月で仕上げた
- 女神は「自由」を人の姿にしたマリアンヌ。帽子の違いで、あらゆる階級の参加を表した
- 発表時は「汚い女神」と酷評され、政府に買われたあと長くしまいこまれた
- のちに紙幣や自由の女神像を通じて、フランスと自由の象徴になった
革命は一度で終わらなかった。だからこの絵が必要でした。次に教科書やニュースでこの絵を見かけたら、右奥の塔の上の、米粒ほどの三色旗を探してください。1830年7月のパリが、そこにあります。
関連アイテム
この記事に関連する本・アルバムはこちらから探せます。
※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。
