エルヴィス・プレスリーは4ドルのレコードから始まった——18歳のトラック運転手とロックンロールの誕生

約4ドル。
1953年の夏、18歳の青年がメンフィスの小さな録音スタジオで払った金額です。誰でもお金を払えば自分の声をレコードにできる、街のサービスでした。彼は2曲のバラードを吹きこみ、1枚きりの円盤を受け取って帰ります。
受付の女性は、メモを残しました。「バラード向きのいい声。要保留」。
青年の名前はエルヴィス・プレスリー。1年後、同じ部屋でロックンロールの歴史が動きます。
エルヴィスは「2部屋の家」で生まれ、ギターは妥協の贈り物だった
エルヴィスは1935年、アメリカ南部ミシシッピ州テュペロに生まれました。
父が借金をして自分で建てた、2部屋しかない木造の家です。双子でしたが、兄は死産でした。一人っ子として、母グラディスに溺愛されて育ちます。
11歳の誕生日に欲しかったのは、自転車でした。
高くて買えない。母が代わりに選んだのがギターです。妥協の贈り物を、少年は教会のゴスペル、ラジオから流れるカントリー、黒人街から聞こえるブルースをまねて弾きました。白人の音楽と黒人の音楽が、はっきり分けられていた時代の南部です。貧しい白人の少年は、その両方が聞こえる場所で育ちました。
13歳で一家はテネシー州メンフィスへ。高校を出ると、電気工事会社のトラック運転手になります。
1954年7月5日、サン・スタジオの休憩時間に起きたこと

4ドルのレコードを録った場所は、サン・スタジオといいます。
経営者のサム・フィリップスは、黒人のブルース歌手たちを録音してきた人物でした。彼には口癖があったと伝えられます。黒人の響きと感覚を持った白人の歌手が見つかれば、この音楽をアメリカ中に届けられるのに、と。
1954年7月5日の夜、フィリップスはエルヴィスを呼び、ギターのスコティ・ムーア、ベースのビル・ブラックと組ませて録音を試みます。
うまくいきませんでした。バラードを何度歌っても、平凡です。
休憩時間。緊張のとけたエルヴィスが、ふざけてギターをかき鳴らし、跳ねまわりながら歌い出しました。黒人ブルース歌手アーサー・クルーダップの古い曲『ザッツ・オール・ライト』です。ベースのブラックが乗り、ムーアが加わる。
調整室のドアから、フィリップスが顔を出しました。「今のは何だ? もう一度、最初からやってくれ」。
数日後、地元ラジオ局のDJがこの曲をかけると、電話が鳴りやまなくなります。DJは一晩で何度も同じ曲をかけ、エルヴィスをスタジオに呼んで、まず出身高校を尋ねました。当時のメンフィスでは、高校名を聞けば人種がわかったからです。リスナーの多くは、歌っているのは黒人だと思いこんでいました。
6000万人が見たエド・サリヴァン・ショーと、「腰から上だけ映せ」

1955年の終わり、大手のRCAレコードがエルヴィスの契約を買い取ります。
金額は3万5千ドル。新人歌手としては当時破格でした。翌1956年1月、『ハートブレイク・ホテル』が全米1位。21歳の元トラック運転手は、数か月でアメリカ一の有名人になります。
問題は、歌ではなく腰でした。
エルヴィスは歌いながら脚を震わせ、腰を振ります。テレビでそれを見た10代は絶叫し、親と新聞と教会は激怒しました。ついたあだ名は「骨盤のエルヴィス」。下品だ、若者を堕落させる、という投書が放送局に殺到します。
人気司会者エド・サリヴァンは、最初「あんな男は番組に出さない」と公言していました。
視聴率には勝てません。1956年9月、エルヴィスが初出演した回は、およそ6000万人が見たとされます。当時のアメリカでテレビをつけていた家の、8割以上です。
3度目の出演となった1957年1月、カメラはエルヴィスの腰から上だけを映しました。
見せないことで、かえって伝説になった。番組の最後にサリヴァンは、彼は礼儀正しい立派な青年だ、と全米に向けて保証しています。
兵役、映画、そして黒い革の「68年カムバック」

人気の絶頂で、徴兵の通知が届きます。
1958年3月、エルヴィスは陸軍に入隊しました。特別扱いを断り、一兵卒として西ドイツの基地へ。その年の夏、最愛の母グラディスが46歳で亡くなります。棺にすがって泣く姿を、周囲の誰もが覚えていました。
2年後に除隊すると、音楽の世界は変わりはじめていました。
マネージャーのトム・パーカー「大佐」は、エルヴィスをハリウッドに送りこみます。1960年代、彼は似たような筋書きの映画に年に何本も出演しました。そのあいだに、イギリスからビートルズがやって来ます。エルヴィスは「昔のスター」になりかけていました。
1968年12月、テレビの特別番組。
33歳のエルヴィスは、黒い革の上下で小さなステージに現れます。客席は目の前。昔の仲間とギターを抱え、汗だくで歌いました。私は映像でこの番組を見るたびに、歌の合間の照れ笑いに目がいきます。自分がまだ歌えるのか、本人がいちばん不安だったのだと思います。
番組は大成功。翌年には『サスピシャス・マインド』で7年ぶりの全米1位を取り、ラスベガスの舞台に立ちます。
42歳の死と、ジョン・レノンの一言
1970年代、白いジャンプスーツの「キング」は、年に100回以上の公演をこなしました。
1973年のハワイ公演は、衛星中継で世界各国に届けられています。一方で、過密な日程と処方薬が体をむしばんでいきました。1977年8月16日、メンフィスの自宅グレースランドで死去。42歳でした。
エルヴィスは曲を自分では書いていません。ギターの名手でもない。
それでも、ジョン・レノンはこう言い残しています。「エルヴィスの前には、何もなかった」。黒人の音楽と白人の音楽のあいだの壁を、声と体ひとつで越えてみせた最初のスター。ビートルズもボブ・ディランも、少年時代にその姿を見て楽器を手に取りました。
よくある質問
Q. エルヴィスは日本に来たことがありますか?
ありません。アメリカ国外での公演は1957年のカナダだけです。マネージャーのパーカー大佐がオランダからの密入国者で、出国できなかったことが理由の一つと言われています。
Q. 「ロックンロールを発明した」のはエルヴィスですか?
発明者ではありません。チャック・ベリーやリトル・リチャードなど黒人音楽家たちが土台を作りました。エルヴィスは、それを全米の茶の間に届けた最初のスターです。
まとめ:今夜聴くなら、1954年の2分間から
- 1953年、18歳のエルヴィスは約4ドルを払ってサン・スタジオで自分の声を録音した
- 1954年7月5日、休憩時間にふざけて歌った『ザッツ・オール・ライト』が最初のレコードになった
- 1956年にテレビ出演で全米の人気者に。腰の動きが騒動になり、「腰から上だけ」の放送もあった
- 兵役と映画の時代を経て、1968年のテレビ特番で復活した
- 1977年に42歳で死去。ビートルズ以降のロックは、彼の切り開いた道の上にある
最初の1曲は、ヒット曲より先に『ザッツ・オール・ライト』を。2分足らずの録音です。ドラムはいません。ギターとベースと、19歳の声だけ。休憩時間の悪ふざけが、そのまま残っています。そのあとで1968年の特番の映像を探せば、14年分の道のりが一晩でたどれます。
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