アンリ・ルソーは一度もジャングルを見ていない——パリの「日曜画家」と、ピカソが開いた宴

アンリ・ルソーは、ジャングルに行ったことがありません。
月明かりの密林、巨大な蓮の花、茂みからこちらをうかがうライオン。熱帯の湿った空気まで伝わってきそうな絵を20点以上描いた画家は、生涯フランスから一歩も出ていないのです。
本業は、パリの入り口で荷物にかかる税を取り立てる役人。絵は独学で、本格的に描きはじめたのは40歳を過ぎてからでした。
では、あの密林はどこから来たのか。
ルソーのジャングルは、パリの植物園の温室でできている

答えは、パリ5区にある国立の植物園です。
ルソーは休みのたびに、ここのガラス張りの温室に通いました。ヤシ、ゴムの木、サボテン。植民地から運ばれてきた熱帯の植物を、鉢植えの前でスケッチする。隣の動物園では、檻の中のライオンやサルを描く。家に帰れば、子ども向けの動物図鑑や、雑誌の挿絵を開きました。
本人はこう語っています。「温室に入って異国の不思議な植物を見ていると、夢の中に入っていくような気がする」。
上の絵は、1891年、40代半ばで発表した最初のジャングル画です。
嵐の密林で、トラが何かに飛びかかろうとしている。よく見ると、葉っぱがどれも大きすぎます。観葉植物の葉を、そのまま何十倍にも引きのばして森にしたからです。植物学的にはめちゃくちゃで、アジアの植物とアメリカ大陸の植物が同じ茂みに生えています。
ルソー自身は、若いころ軍隊でメキシコに遠征し、そこで密林を見たのだと周囲に話していました。
これは作り話です。軍にいたのは事実ですが、フランス国内の勤務だけでした。詩人のアポリネールがこの話を広めたため、長いあいだ信じられていました。
見たことがないから、描けなかったのではありません。見たことがないから、誰も見たことのない密林になったのです。
「税関吏ルソー」は、笑われるために展覧会に出していた?

ルソーは1844年、フランス西部の町ラヴァルに、ブリキ職人の子として生まれました。
27歳でパリ市の入市税関に就職します。市内に運びこまれるワインや食料に税をかける役所で、仕事は門での見張り番。あだ名の「ル・ドゥアニエ(税関吏)」はここから来ています。暇な時間の多い職場で、彼はスケッチをしていました。
美術学校には行っていません。
当時のパリには、審査なしで誰でも出品できる「アンデパンダン展」という展覧会がありました。ルソーは1886年、42歳の年から毎年のように出品します。
観客は、笑いに来ました。
遠近法は狂っている。人物は正面を向いて棒立ち。足は地面から浮いて見える。新聞は「目をつぶって足で描いたようだ」と書き、ルソーの絵の前には人だかりができて、爆笑が起きたといいます。
本人は、まったくこたえていませんでした。新聞の批評を切り抜いてノートに貼り、大事に取っておいた。けなされた記事も、です。
上の自画像を見てください。舞台はパリのセーヌ川。万国旗をつけた船、前の年に完成したばかりのエッフェル塔、気球。その前に、ベレー帽と黒い服の自分を、巨人のような大きさで立たせています。手のパレットには、先立った最初の妻クレマンスと、のちに再婚するジョゼフィーヌの名前。彼はこの絵を「肖像=風景」と名づけ、自分が発明した新しいジャンルだと胸を張りました。
49歳で役所を早期退職。わずかな年金と、近所の子どもに教えるヴァイオリンと絵の月謝で暮らしながら、描くことだけに集中します。
5フランで売られていたルソーの絵と、ピカソの「ルソーの夜会」

笑わなかった人たちもいました。若い前衛の画家と詩人たちです。
1908年、20代後半のピカソは、モンマルトルの古道具屋の店先でルソーの大きな女性の肖像画を見つけます。値段は5フラン。店主は「上から塗りつぶして、キャンバスとして使えますよ」と勧めたそうです。
ピカソは買って帰り、生涯手放しませんでした。
その年の秋、ピカソは自分のアトリエ、通称「洗濯船」と呼ばれたぼろアパートで、ルソーをたたえる宴会を開きます。詩人アポリネール、画家ブラック、アメリカ人の作家ガートルード・スタインら、のちに20世紀芸術の主役となる面々が集まりました。
64歳のルソーは、木箱を重ねた玉座に座らされます。
頭の上には提灯。そこから溶けたろうが、ぽたり、ぽたりと頭に落ちて、小さな山になっていく。ルソーは身じろぎもせず座りつづけ、やがてヴァイオリンを取り出して自作のワルツを弾きました。
半分は、からかいだったのかもしれません。それでも、もう半分は本気の敬意でした。若者たちが何年もかけて壊そうとしていた遠近法や陰影の約束ごとを、この老人は最初から持っていなかったからです。
その夜、ルソーはピカソに耳打ちしました。
「結局、我々二人がこの時代の最も偉大な画家だね。君はエジプト風で、私は現代風で」。
私はこの一言が大好きです。冗談ではなく、本気で言っている。笑われつづけた20年間、彼は自分が大画家であることを、一度も疑わなかったのです。
上の『眠るジプシー女』は、ルソーが故郷ラヴァルの市長に手紙を書き、町で買い上げてほしいと頼んだ作品です。返事は、お断りでした。現在はニューヨーク近代美術館の至宝の一つです。
最後の大作『夢』——なぜジャングルにソファがあるのか
冒頭の絵に戻ります。亡くなる年に描かれた『夢』。横幅3メートル近い、ルソー最後の大作です。
密林の中に、赤いビロードのソファが置かれ、裸の女性が横たわっています。
展覧会でこれを見た批評家が、なぜジャングルにソファがあるのかと尋ねました。ルソーの説明は明快です。この女性はパリの部屋のソファで眠っていて、密林に運ばれた夢を見ている。蛇使いの笛の音を聴いているのだ、と。
ソファの上の現実と、まわりの夢が、切れ目なく一枚に描かれている。のちにシュルレアリスムの画家たちが目指したことを、彼は理論なしでやっていました。
1910年9月、足の傷がもとで死去。66歳でした。葬儀の参列者は7人だったと伝えられます。
よくある質問
Q. 「素朴派」とは何ですか?
正規の美術教育を受けず、独学で描いた画家たちを指す呼び名です。ルソーはその代表とされます。遠近法や陰影の決まりにとらわれない、平面的で細部まで丁寧に描きこむ画風が特徴です。
Q. 日本でルソーの作品は見られますか?
国内にも複数の美術館が所蔵しています。展示の有無は時期によって変わるので、各館の公式サイトで最新情報を確認してください。
まとめ:ルソーのジャングルは、温室のガラスの内側にあった
- ルソーは生涯フランスを出ておらず、ジャングルは植物園の温室と動物園、図鑑から組み立てた
- 本業はパリ市の入市税関の職員。独学で、42歳の年から無審査の展覧会に出品しつづけた
- 観客と新聞に笑われても、自分が大画家であることを疑わなかった
- 1908年、ピカソが5フランで絵を買い、アトリエでルソーをたたえる宴を開いた
- 最後の大作『夢』は、現実のソファと夢の密林を一枚に描き、シュルレアリスムを先取りした
ルソーは、ジャングルに行ったことがありません。行く必要がなかったのです。日曜日の温室で、鉢植えのヤシの前に立つ。それだけで、彼の頭の中には月が昇り、ライオンが目を光らせました。遠くへ行けないことは、描けない理由にならない。『夢』の葉っぱが大きすぎるのは、その証拠です。
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