筏に乗った約150人、救われたのは15人——ジェリコー『メデューズ号の筏』の13日間

木材を縄で縛っただけの筏が、荒れた海に浮かんでいる。
手前には、もう動かない体がいくつも転がっています。波に足をさらわれかけた死体。膝の上に若者の亡骸を抱え、頬杖をついて虚空を見つめる老人。そこから視線を右上へ上げていくと、人の体が折り重なって山になり、てっぺんで一人の男が布を振っている。
彼が見ているのは、水平線です。
ルーヴル美術館の赤い壁の部屋に掛かるこの絵は、縦約5メートル、横約7メートル。人物はほぼ等身大で、手前の死体は床から手が届きそうな高さにあります。描かれているのは神話でも聖書でもなく、描かれる3年前に実際に起きた事件でした。
メデューズ号はなぜ座礁したのか——20年以上船に乗っていなかった艦長
1816年6月、フランス海軍のフリゲート艦メデューズ号は、西アフリカのセネガルへ向けて出港しました。乗っていたのは、新しい総督とその家族、役人、兵士、入植者たち。セネガルはこの年、イギリスからフランスに返還されたばかりでした。
艦長はユーグ・デュロワ・ド・ショマレー。
革命のあいだ国外に逃れていた貴族で、王政が復活したあと、縁故で艦長に任命された人物です。実際に船を指揮するのは20年以上ぶりでした。
彼は航路を急ぎ、同行の船団から離れます。海図に載っていた危険な浅瀬への警告も聞き入れませんでした。7月2日、メデューズ号はモーリタニア沖のアルガン浅瀬に乗り上げます。
救命ボートは、全員を乗せるには足りませんでした。
筏は長さ約20メートル。最初の夜、約20人が消えた
乗組員たちは、帆柱や板を組み合わせて大きな筏を作りました。長さ約20メートル、幅約7メートル。そこに約150人の兵士や船員が詰めこまれます。乗りきれない重みで、筏は膝まで水に沈みました。
ボートが筏を曳いて陸へ向かう、という計画でした。
ところが、まもなく曳き綱は外されます。ボートに乗った艦長や総督たちは、筏を置き去りにして去っていきました。筏にあったのは、わずかなビスケットとワインの樽、そして水の入った樽だけ。
最初の夜のうちに、約20人が波にさらわれたり、押しつぶされたりして命を落とします。
2日目の夜には、ワインに酔った兵士たちが反乱を起こし、筏の上で殺し合いが始まりました。4日目には、生き残った人々が死者の肉を口にしたと、のちに生存者自身が記しています。8日目、食料が尽きかけたとき、比較的元気な者たちは、弱った仲間を海に投げこむことを決めました。
残ったのは15人。
13日目の7月17日、同じ船団のアルギュス号が筏を発見します。救助された15人のうち、5人はまもなく亡くなりました。
生存者の告発と、27歳の画家が始めた「取材」

事件が知られるきっかけは、生き残った軍医サヴィニーと技師コレアールでした。
二人は翌1817年、筏の13日間を詳しく記した本を出版します。無能な貴族を艦長にした政府の責任が問われ、事件は王政を批判する政治スキャンダルになりました。
この本を読んだのが、27歳の画家テオドール・ジェリコーです。
ルーアンの裕福な家に生まれ、馬を愛し、20代前半で官展(サロン)に騎兵の大作を出して注目された画家でした。イタリアでミケランジェロの壁画を見て帰国したばかりの彼は、この事件で巨大な絵を描くと決めます。
そこからの準備は、画家というより記者の仕事でした。
生存者のサヴィニーとコレアールに直接会い、話を聞く。筏を作った船大工の生存者に頼んで、筏の縮尺模型を作ってもらう。模型の上に蝋人形を並べて、構図を何度も試す。海の色を見るために、ノルマンディーの海岸へも出かけました。
死体の色を描くために、病院の遺体安置所にも通いました。切断された手足を借りてアトリエに持ち帰り、腐っていく色の変化を写生したと伝えられます。制作に集中するため頭を丸め、人前に出られないようにして、約8か月アトリエにこもりました。
ジェリコーは、救助の瞬間ではなく「見逃される瞬間」を選んだ

13日間のどの場面を描くか。ジェリコーは、殺し合いの夜も、人肉を食べる場面も、救助の場面も試し描きしています。
最終的に選んだのは、水平線にアルギュス号の姿が見えた瞬間でした。
上の部分図で、布を振る男の視線の先を探してください。水平線の右寄りに、豆粒ほどの船影があります。見つけにくいのは、画家の意図どおりです。生存者の記録によれば、アルギュス号はこのとき筏に気づかず、いったん遠ざかっていきました。救助されたのは、その数時間後のことです。
希望が見えた瞬間と、見捨てられるかもしれない瞬間。その両方を、同じ一瞬として描いたわけです。
構図は二つのピラミッドでできています。左は、帆柱と帆と張り綱が作る三角形。右は、死体から立ち上がり、頂上の男へ向かって積み上がる人の山。視線は左下の死から右上の希望へ、対角線に沿って運ばれます。頂上で布を振る男が黒人として描かれていることも、奴隷貿易の廃止が議論されていた当時、見る者に強い印象を与えました。
手前でうつぶせに倒れた若者のモデルは、ジェリコーの友人で、のちに『民衆を導く自由の女神』を描く7歳年下のドラクロワだったと言われます。
1819年のサロンで、題名は「難破の情景」に変えられた
1819年、絵はサロンに出品されます。政治的な騒ぎを避けるため、題名は「メデューズ号」ではなく「難破の情景」とされました。
評価は真っ二つに割れます。
政府を批判する絵だと怒る人、死体を並べた醜い絵だと嫌う人、同時代の事件をここまでの大きさで描いた勇気を称える人。絵は金メダルを受けましたが、政府による買い上げは実現しませんでした。翌年、絵はロンドンで有料の展示にかけられ、多くの観客を集めます。
ジェリコーはその後も落馬事故を重ね、体を壊しました。1824年、32歳で死去。同じ年、ルーヴル美術館が『メデューズ号の筏』を買い取ります。
現在の絵は、描かれた当時よりかなり暗くなっています。黒の深みを出すために使った「ビチューメン」という絵の具が、年月とともに変色し、ひび割れを起こしたためです。
よくある質問
Q. 『メデューズ号の筏』はルーヴル美術館のどこにありますか?
ドゥノン翼の、19世紀フランスの大型絵画が並ぶ展示室にあります。展示替えや改修で場所が変わることもあるので、館内図や公式サイトで確認してください。
Q. ジェリコーはロマン主義の画家ですか?
はい。理想化された古代の英雄ではなく、同時代の事件と人間の激しい感情を描いた点で、フランス・ロマン主義の出発点とされます。ドラクロワに大きな刺激を与えました。
まとめ:水平線の船影は、豆粒でなければならなかった
- 1816年、縁故で任命された艦長のもと、メデューズ号がモーリタニア沖で座礁した
- 約150人を乗せた筏は置き去りにされ、13日後に救われたのは15人だった
- 27歳のジェリコーは生存者に取材し、模型や遺体安置所での写生で8か月かけて描いた
- 選んだのは、船が見えたのに気づかれず遠ざかっていく瞬間
- 政府批判の絵として賛否を呼び、画家の死後にルーヴル美術館が買い取った
冒頭で、布を振る男が水平線を見ている、と書きました。その先の小さな船影は、このあと一度遠ざかります。約150人のうち15人。絵の中の人々は、自分たちがその15人に入るかどうかを、まだ知りません。
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