『湖畔』の浴衣とうちわ——黒田清輝が日本に持ち帰った「外の光」

黒田清輝『湖畔』1897年、東京国立博物館(重要文化財)
黒田清輝『湖畔』1897年、東京国立博物館(重要文化財)

教科書で見た『湖畔』。正直、地味な絵だと思いませんでしたか。

浴衣の女性が、うちわを持って岩に腰かけている。背景は湖と山。事件も物語もありません。美術の資料集の「明治の洋画」のページで、ほかの絵と並んでいた記憶がある、という人がほとんどだと思います。

ところがこの絵、描かれた当時の日本では、かなり新しい絵でした。

描いたのは黒田清輝。法律を学ぶためにフランスへ渡り、画家になって帰ってきた人です。そして『湖畔』を描いた数年前と数年後、彼は「裸婦」の絵で日本中を騒がせています。静かな浴衣の絵と、警察が出てきた裸婦の絵。同じ画家の仕事です。

黒田清輝は画家になるためではなく、法律を学ぶためにパリへ渡った

黒田清輝は1866年、薩摩藩(いまの鹿児島県)の武士の家に生まれました。まもなく伯父の養子となり、東京で育ちます。養父はのちに子爵となる明治政府の役人でした。

17歳のとき、フランスへ留学します。目的は法律の勉強でした。

パリで暮らすうちに、現地で絵を学んでいた日本人の先輩たちと知り合います。絵の才能を見こんだ彼らから画家の道を強く勧められ、黒田は迷った末に法律をやめ、画家になると決めました。養父への手紙で許しを求めた、と伝えられています。

師匠になったのは、ラファエル・コランというフランスの画家です。アカデミーの正統な技術を持ちながら、屋外の明るい光を画面に取りこむ画風でした。黒田は留学のあいだに、この「外の光」の描き方を身につけていきます。

『読書』でサロンに入選。フランスの村で描いた一枚

黒田清輝『読書』1891年、東京国立博物館
黒田清輝『読書』1891年、東京国立博物館

パリから南へ70キロほどの小さな村グレーは、黒田が好んで滞在した場所でした。川が流れ、各国の画家が集まる村です。

上の『読書』は、そこで描かれました。

窓の鎧戸を閉めた薄暗い部屋で、赤い服の若い女性が本を読んでいる。鎧戸のすきまから差す光が、ページと指先と頬を照らしています。モデルは村の娘でした。

1891年、この絵はフランスの公式展覧会「サロン」に入選します。日本人の洋画家としては、大きな出来事でした。

留学は約9年におよびました。1893年、26歳の黒田は日本に帰ってきます。

京都で「裸婦」を見せたら、大騒ぎになった

帰国した黒田が日本の画壇に最初に投げこんだのは、静かな風景画ではありませんでした。

1895年、京都で開かれた内国勧業博覧会。黒田は、パリで描いた『朝妝(ちょうしょう)』を出品します。鏡の前に裸で立ち、髪を整える女性の絵でした。フランスでは展覧会に並んでいた作品です。

ところが日本では、大騒ぎになりました。

裸の女性を公の場で見せるのは風俗を乱す、という批判が新聞をにぎわせます。黒田は、裸体を描くことは西洋美術の基本であり、それを見せられない国では本当の美術は育たない、という立場を崩しませんでした。

騒ぎは続きます。1901年、黒田が主宰する白馬会の展覧会で、裸婦を描いた作品に警察が介入しました。絵の下半分を布で覆え、というのです。会場には、腰から下に布を巻かれた絵が並びました。いわゆる「腰巻事件」です。

残念ながら『朝妝』は、第二次世界大戦中の空襲で焼失し、現在は写真でしか見られません。

では、その間に描かれた『湖畔』は、何が新しかったのか。

『湖畔』の新しさは、影が青いこと

1897年の夏、黒田は神奈川県の箱根で過ごしました。冒頭の絵は、そこで芦ノ湖を背に描かれたものです。

最初に目に入るのは、全体を包む淡い青です。

浴衣の縞も、湖の水面も、遠くの山も、少しずつ違う青と緑で描かれている。女性の顔や腕には、茶色や黒の濃い影がありません。影の部分は、ほんのり青みを帯びています。

これが、黒田が持ち帰った「外の光」でした。

それまでの日本の洋画は、茶色やこげ茶の暗い色調が主流で、「脂派(やには)」とあだ名されていました。屋外の光の下では、影も空の色を映して青や紫になる。黒田とその仲間たちは明るい色で影を描き、「紫派」と呼ばれるようになります。

構図も見てください。女性は正面ではなく、画面の外、左の方へ視線を向けています。何を見ているのかは描かれていない。背景の湖は、地平線まで広がらず、対岸の山で静かに閉じられています。うちわの白が、画面の中でいちばん明るい点です。

私はこの絵を、夕方の涼しさの絵だと思っています。一日の暑さがやっと引いて、湖から風が来る。そういう時間の空気まで、青で描いてある。

モデルの女性は、のちに黒田の妻となる照子です。この絵は1900年のパリ万国博覧会にも出品され、1999年には重要文化財に指定されました。1967年の切手趣味週間では記念切手の図柄にもなり、教科書と切手を通じて、日本でいちばん見慣れた洋画の一つになっていきます。見慣れすぎて、新しさが見えにくくなった絵とも言えます。

裸婦と浴衣は、同じ一つの主張だった

黒田清輝『自画像』、東京国立博物館
黒田清輝『自画像』、東京国立博物館

裸婦で騒ぎを起こし、浴衣の女性を静かに描く。まるで別人のようですが、黒田の中では一つの主張でした。

それがよく表れているのが、『湖畔』の2年後に描かれた『智・感・情』です。金色の背景の前に、3人の裸の女性が等身大で立つ三幅の絵。モデルは日本人で、体つきも西洋の女神像のように理想化されていません。黒田はこれを1900年のパリ万博に出品し、銀賞を受けました。日本人の体を、日本人の画家が、西洋の技法で正面から描く。浴衣の『湖畔』と、根っこは同じです。

西洋の絵画の基本を日本に根づかせること。人の体をそのまま描く裸体画も、屋外の光を正確に写す外光表現も、そのための柱でした。『湖畔』は、日本の風景と日本の女性を、西洋の光の描き方で描いた、その成果です。

黒田は東京美術学校(いまの東京藝術大学)で西洋画を教え、多くの画家を育てました。晩年は貴族院議員となり、美術行政の中心に立ちます。1924年に亡くなると、遺言により遺産の一部が美術の振興に充てられ、東京・上野に黒田記念館が建てられました。

よくある質問

Q. 『湖畔』の実物はどこで見られますか?
東京国立博物館が所蔵しています。上野の黒田記念館で公開されることがありますが、展示時期は限られるので、公式サイトで最新の情報を確認してください。

Q. 「外光派」とは何ですか?
屋外の自然光の中で見える色や明るさを重視して描く画家たちを指します。黒田清輝とその門下は、日本における外光派の代表とされます。

まとめ:『湖畔』は、日本の夏を西洋の光で描いた絵

  • 黒田清輝は法律留学のためにパリへ渡り、画家に転身した
  • 師コランから屋外の明るい光を描く技法を学び、『読書』でサロンに入選した
  • 帰国後、裸婦画『朝妝』や「腰巻事件」で、日本の画壇に論争を起こした
  • 『湖畔』は、影を青く描く「外の光」の表現で、それまでの暗い洋画と一線を画した
  • モデルはのちの妻・照子。1999年に重要文化財に指定された

『湖畔』が地味に見えるのは、影がないからではありません。影まで、明るいからです。

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