ウッドストックはウッドストックで開かれていない——1969年8月、雨の農場に集まった40万人の3日間

ウッドストック・フェスティバルの観客(1969年)(Photo: Derek Redmond and Paul Campbell / CC BY-SA 3.0)
ウッドストック・フェスティバルの観客(1969年)(Photo: Derek Redmond and Paul Campbell / CC BY-SA 3.0)

ウッドストックは、ウッドストックという町で開かれたロック・フェスティバルではありません。

1969年8月、40万人とも言われる若者が集まった伝説の会場は、ニューヨーク州ベセルという別の町の、牛を飼う酪農家の牧草地でした。名前のもとになったウッドストックの町からは、約70キロ離れています。

ポスターの開催地には「ホワイトレイク」と刷られていました。それなのに、世界はこのフェスを「ウッドストック」と呼び、半世紀以上たったいまも、ロックの歴史でいちばん有名な3日間として語り継いでいます。

会場が決まったのは、開幕のわずか1か月ほど前。何もかもが間に合わないまま、3日間は始まりました。

ウッドストックの町は、なぜ会場にならなかったのか

フェスを企画したのは、20代の若者4人でした。

最初の構想は、ニューヨーク州の小さな町ウッドストックの近くで開くことでした。ウッドストックは、画家や音楽家が多く住む芸術家の町として知られ、ボブ・ディランもこの町に暮らしていました。若者文化の聖地のような響きのある名前です。

ちなみに、ジョン・ケージの『4分33秒』が1952年に初演された森のホールも、この町のすぐ近くにあります。

ところが、町の近くでは広い会場が見つかりません。次に決まった別の町では、住民の反対で、開催の1か月前に事実上の禁止を言い渡されます。何万人ものヒッピーが押し寄せることを、地元の人々は恐れていました。

そこに手を挙げたのが、ベセルで酪農を営むマックス・ヤスガーという男性でした。彼が貸した広い牧草地が、なだらかな斜面になっていて、すり鉢状の天然の客席になったのです。

名前は、もとの構想のまま「ウッドストック」が残されました。

予想は数万人。ウッドストックに集まったのは推定40万人

ウッドストック・フェスティバルのポスター。開催地は「ホワイトレイク」と書かれている
ウッドストック・フェスティバルのポスター。開催地は「ホワイトレイク」と書かれている

主催者たちは当初、集まるのは数万人ほどだろうと見込んでいました。

ところが開幕の前日から、車の列が会場に向かう道路を埋めつくしはじめます。渋滞は何キロにも及び、動けなくなった車を道ばたに捨てて、歩いて会場を目指す若者が続出しました。

会場のフェンスも、チケットを確かめる入場ゲートも、完成していませんでした。押し寄せる人の波を前に、主催者は入場料を取るのをあきらめ、ステージから「無料のコンサートにする」と告げます。

集まった人数は、推定40万人以上。正確な数は誰にもわかりません。ただ、ベセルという小さな町に、一晩で都市一つ分の人間が現れたことは確かでした。

上のポスターを見ると、白いハトがギターのネックにとまっています。キャッチコピーは「3日間の平和と音楽」。下のほうには、1日券から3日通し券までの値段が小さく刷られています。そのチケットを、多くの観客は使わずに済んだわけです。

リッチー・ヘヴンスが、3時間近く歌い続けた理由

8月15日の金曜日、最初にステージに立ったのは、フォーク歌手のリッチー・ヘヴンスでした。

本当は、彼の出番はもっとあとの予定でした。ところが渋滞のせいで、ほかの出演者が会場にたどり着けない。少人数の編成で準備に手間のかからないヘヴンスが、急きょトップバッターを任されます。

次の出演者が到着しないため、彼は何度もステージに呼び戻され、予定をはるかに超える時間、歌い続けることになりました。知っている曲を出しつくしたヘヴンスが、最後に即興で歌いはじめたのが「フリーダム」です。古い黒人霊歌をもとに、「自由」という言葉をくり返すその歌は、この3日間を代表する場面の一つになりました。

出演者を運ぶため、主催者はヘリコプターを手配します。道路が使えないフェスに、空から音楽家が降りてくる。それ自体が、この3日間の異常さを伝えていました。

雨とぬかるみと、食べ物の足りないウッドストックの3日間

雨のあとの会場で毛布にくるまる観客たち(1969年)
雨のあとの会場で毛布にくるまる観客たち(1969年)

40万人を迎える準備は、どこにもありませんでした。

トイレも水も、まったく足りない。食べ物の屋台はすぐに品切れになり、近所の住民たちがサンドイッチや水を差し入れました。ヒッピーの共同体がかまどを作り、大鍋で炊いた食事を無料で配っています。

追い打ちをかけたのが雨でした。激しい雷雨が何度も会場を襲い、牧草地はたちまち泥の海になります。上の写真のように、観客は毛布にくるまり、泥の上で寝起きしました。

それでも、大きな暴動は起きませんでした。

日曜日、地主のヤスガーはステージに上がり、これだけの若者が集まって、3日間ただ音楽を楽しんでいる、と語りかけて大きな拍手を浴びています。ジャニス・ジョプリン、ザ・フー、サンタナ、ジョー・コッカー、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング。ステージは昼も夜も途切れずに続きました。

月曜の朝、ジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌を鳴らした

予定では、最後の出演者ジミ・ヘンドリックスは日曜の深夜に登場するはずでした。

進行は大幅に遅れ、彼がステージに立ったのは月曜日の朝。40万人の大半はすでに帰路につき、泥だらけの牧草地に残っていたのは、その一部でした。

この朝、ヘンドリックスはエレキギターで、アメリカ国歌「星条旗」を弾きます。

旋律の合間に、ギターが爆撃の音や、空を裂くサイレンのような音を立てる。当時のアメリカは、ベトナム戦争のただ中にありました。国歌を弾きながら、そこに戦場の音を重ねる。その演奏は、いまもこのフェスで最も語られる場面です。

1年後の映画が、ウッドストックを「伝説」にした

ウッドストックの開催地に立つ記念碑(Photo: Marc Holstein / CC BY-SA 4.0)
ウッドストックの開催地に立つ記念碑(Photo: Marc Holstein / CC BY-SA 4.0)

主催者は大赤字を抱えました。ところが翌1970年、3日間を記録したドキュメンタリー映画『ウッドストック/愛と平和と音楽の三日間』が公開されると、大ヒットします。映画はアカデミー賞の長編ドキュメンタリー賞を受け、編集スタッフの中には、のちの映画監督マーティン・スコセッシもいました。

その場にいなかった世界中の若者が、映画とライブ盤を通して、この3日間を体験することになります。

ベセルの牧草地はいまも残り、そばには記念碑と、このフェスを伝える博物館を備えた施設が建てられています。そして、ウッドストックの町に住んでいたボブ・ディランは、このフェスには出演していません。

よくある質問

Q. ウッドストックの演奏は、どこで聴けますか?
1970年の映画と、同じ年に出たライブ盤が定番です。のちに出演者ごとの完全版や、未発表演奏を集めた大規模な音源も出ています。

Q. ウッドストックは毎年開かれていたのですか?
1969年の3日間は一度きりのものでした。のちに記念の名を冠したフェスが何度か開かれていますが、1969年のものとは別の催しです。

まとめ:ウッドストックは、場所の名前ではなかった

  • 1969年8月のウッドストックは、ウッドストックの町ではなく、約70キロ離れたベセルの牧草地で開かれた
  • 予想は数万人だったが、推定40万人以上が集まり、無料のコンサートになった
  • 渋滞でほかの出演者が遅れ、リッチー・ヘヴンスが長時間歌い続けた
  • 雨とぬかるみと食料不足の中でも、大きな暴動は起きなかった
  • 月曜の朝、ジミ・ヘンドリックスがアメリカ国歌を弾き、1年後の映画が3日間を伝説にした

ウッドストックという言葉が指しているのは、地図の上の町ではありません。1969年の夏、泥の中で40万人が同じ音を聴いた、3日間そのものです。

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