交響曲の初演に失敗し、3年書けなくなった——ラフマニノフ『ピアノ協奏曲第2番』と、毎日同じ言葉をかけた医師

1897年の春、サンクトペテルブルクの演奏会場。
客席の後ろのほう、非常階段の近くに、背の高い若者が身を縮めて立っていました。舞台では、彼が初めて書いた交響曲が鳴っている。ところがオーケストラの音はまとまらず、聴いている側にも、何がどうなっているのかがつかめない。若者は最後まで聴いていられず、途中で外へ出たと伝えられます。
セルゲイ・ラフマニノフ、23歳。
この夜から、彼はほとんど曲が書けなくなりました。そこから抜け出すきっかけをくれたのは、音楽家ではなく、一人の医師です。そしてその回復の先に生まれたのが、いまではクラシックの名曲集に必ずといっていいほど入る『ピアノ協奏曲第2番』でした。
「地獄に音楽院があったら」——23歳の交響曲第1番、初演の夜
ラフマニノフは、早くから才能を認められた若者でした。
モスクワ音楽院をピアノと作曲の両方で優秀な成績で卒業し、在学中に書いた短いオペラは、チャイコフスキーにほめられたといわれます。19歳で書いたピアノ曲『前奏曲 嬰ハ短調』は、たちまち評判になり、どこへ行ってもアンコールで弾かされるほどの人気曲になっていました。
満を持して取り組んだのが、交響曲第1番です。オーケストラのための大きな作品で、若い作曲家にとっては、本物の作曲家として認められるための試験のようなものでした。
指揮を務めたのは、当時ロシアを代表する作曲家の一人、グラズノフです。ところが、リハーサルは足りず、演奏は散々な出来になりました。指揮者が酒に酔っていた、という話までのちに語られています。真偽ははっきりしませんが、少なくとも、作曲者の書いた音が客席に届かなかったことは確かでした。
批評も容赦がありませんでした。作曲家で批評家のキュイは、もし地獄に音楽院があったら、この曲は一等賞をとるだろう、という意味の文章を書いたことで知られています。
ラフマニノフはこの失敗を、そのまま自分自身の失敗として受けとめました。楽譜はしまい込まれ、彼が生きているあいだ、二度と演奏されることはありませんでした。
その後の3年ほど、まとまった作品はほとんど生まれていません。家庭教師や指揮の仕事で食いつなぎながら、書こうとしても書けない。何をしても気力がわかない。今でいう、うつの状態にあったと考えられています。
失敗した曲の楽譜は、結局どうなったのか。それは、最後にもう一度触れます。
毎日、同じ言葉を聞かせた医師——ダール博士と、献辞の「N.ダール氏へ」

心配した親戚たちが、彼を一人の医師のもとへ連れていきました。
ニコライ・ダールという、モスクワの医師です。神経の病の治療に、当時新しかった催眠療法を取り入れていたことで知られ、自身も楽器をたしなむ音楽好きの人物でした。
1900年の初めから、ラフマニノフはほとんど毎日、ダールのもとへ通います。のちにラフマニノフ本人が回想しているところでは、治療は、うとうとした状態の彼に、医師が同じ言葉を何度もくり返し語りかけるものでした。あなたは協奏曲を書くだろう。すらすらと書けるだろう。そしてそれは、すばらしい出来になるだろう。
信じられないような話ですが、ラフマニノフはこう書き残しています。理由はわからないが、本当に助けられた、と。
その年の夏には、新しい曲のアイデアが次々にわいてくるようになりました。年末には、協奏曲の第2・第3楽章が先に演奏され、好評を得ます。翌1901年の秋、モスクワで全曲が初演されました。ピアノを弾いたのは、作曲者自身です。
初演は大成功。4年前のあの夜とは、まったく逆の結果でした。
上の楽譜の表紙を見てください。いちばん上に、小さくフランス語で「N.ダール氏へ」と刷られています。ラフマニノフは、この曲を医師に捧げました。
私はこの献辞を知ってから、曲の聴こえ方が少し変わりました。重々しい冒頭も、甘すぎるほどの旋律も、自分を取り戻した人が書いた音だと思うと、その甘さが、ただの甘さに聴こえなくなるのです。
鐘の音のような8つの和音——『ピアノ協奏曲第2番』の聴きどころ

この曲は、ピアノの独奏から始まります。
オーケストラは鳴りません。ピアノが一人で、低い音と重い和音を交互に打ち鳴らす。最初はごく小さな音で、1つ鳴らすごとに少しずつ大きく、厚くなっていき、8つ目で頂点に達したところで、オーケストラが一斉に流れ込んでくる。
この和音は、よくロシアの教会の鐘にたとえられます。遠くから鐘の音が近づいてくるようでもあり、重い扉が一つずつ開いていくようでもある。最初の30秒で、もう曲の世界に引きずり込まれます。
大きな手で知られたラフマニノフらしく、和音は指をいっぱいに広げないと届かないものばかり。ピアニストにとっても、出だしから緊張を強いられる曲です。
第2楽章は、うって変わって静かな音楽です。弱音器をつけた弦の上で、フルートとクラリネットが長い旋律を受け渡していく。のちにアメリカのポップス歌手エリック・カルメンが、この楽章の旋律をもとにヒット曲を作ったことでも知られています。
第3楽章は、速く、華やかで、最後はピアノとオーケストラが全力でぶつかり合うように終わります。全体で30分あまり。映画にも何度も使われてきました。1945年のイギリス映画『逢びき』では、駅で出会った男女の物語に、全編を通してこの曲が流れます。
日本では、2014年のソチ五輪で、フィギュアスケートの浅田真央さんがフリーの演技に使った曲として覚えている人も多いはずです。
その後のラフマニノフは、1917年のロシア革命を機に祖国を離れ、アメリカを拠点に、世界的なピアニストとして演奏旅行を続けました。演奏会でこの協奏曲を求められることは、生涯を通して数えきれないほどありました。亡くなったのは1943年、カリフォルニアの自宅で、70歳の誕生日を目前にしてのことです。どん底から書いた1曲が、そのまま一生の看板になったわけです。

よくある質問
Q. 交響曲第1番は、その後どうなったのですか?
総譜は失われたままでしたが、ラフマニノフの死後、オーケストラのパート譜が見つかり、それをもとに楽譜が復元されました。1945年に再び演奏され、いまでは録音も多く出ています。初演の夜とは違い、しっかり練習されたオーケストラで聴くと、若い作曲家の意欲作として楽しめます。
Q. 初めて聴くなら、どの録音がよいですか?
作曲者自身がピアノを弾いた録音も残っています。音は古いのですが、本人のテンポ感がわかります。音のよさを求めるなら、新しい録音から好きなピアニストを選んで構いません。
まとめ
- 1897年、23歳のラフマニノフの交響曲第1番は、初演で大失敗に終わった
- その後3年ほど、彼はまとまった作品を書けなくなった
- 医師ニコライ・ダールの催眠療法に通ったのち、1901年に『ピアノ協奏曲第2番』を完成させ、ダールに献呈した
- 冒頭はピアノだけで鳴らす8つの和音。鐘の音にたとえられ、そこからオーケストラが流れ込む
今夜1曲だけ聴くなら、第1楽章の最初の1分です。ピアノが一人で8つの和音を鳴らし終え、オーケストラが入ってくる瞬間を、音量を少し上げて待ってみてください。3年間止まっていた人が、もう一度動き出した音です。
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