グリーグ『朝』はノルウェーの朝ではない——『ペール・ギュント』の主人公が迎えた、モロッコの砂漠の夜明け

フルートが、ゆっくりと4つの音を吹く。オーボエが同じ旋律で応える。
グリーグの『朝』です。目覚ましのアラームや、朝の場面を描くテレビ番組で、一度は耳にしたことがあるはずです。
作曲したエドヴァルド・グリーグは、ノルウェーの人。だから多くの人が、この曲にフィヨルドの朝霧や、針葉樹の森にさす光を重ねます。音楽の教科書でも、北欧の澄んだ朝の曲として紹介されることがあります。
ところが、この曲の舞台はノルウェーではありません。
北アフリカ、モロッコの砂漠です。しかも夜明けを迎えるのは、全財産を盗まれ、ひとり砂の上に取り残された中年男でした。
『ペール・ギュント』は、ほら吹き男の一生を描いた劇だった
『朝』は、もともと単独の曲ではありません。
ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンが1867年に書いた戯曲『ペール・ギュント』。その舞台のために、グリーグが書いた劇音楽の一部です。

主人公のペール・ギュントは、ノルウェーの山村に暮らす農家の息子。口を開けばほら話ばかりで、働きもせず、母親のオーセを困らせています。
物語は、この男の一生を追いかけます。
若いペールは、よその村の結婚式から花嫁をさらって山へ逃げ、すぐに捨ててしまう。山の奥ではトロル(北欧の伝説に出てくる妖怪)の王の娘に言い寄り、あやうくトロルの仲間にされかける。自分を一途に慕う娘ソルヴェイグが山小屋まで訪ねてきても、結局は置き去りにして旅に出てしまいます。
そして第4幕。何年も後、ペールは中年になり、商売で大金持ちになっています。場所はモロッコの海岸。ところが、仲間に裏切られて、財産を積んだ船ごと持ち逃げされてしまう。その船は沖に出たところで爆発して沈むのですが、ペールの手もとには何も戻ってきません。
すべてを失い、砂漠で一夜を明かした男の前に、太陽が昇ってくる。
その場面のための音楽が、『朝』でした。
劇の筋を知ってから聴き直すと、あの穏やかな旋律が少し違って聞こえてきます。爽やかなのは景色だけで、それを見ている男の心は空っぽ。音楽は、男の事情などおかまいなしに、ただ美しく朝を描いています。
イプセンの劇は、もともと舞台で上演するより、本として読まれることを想定して書かれました。登場人物は多く、場所は山から砂漠、エジプトの精神病院まで飛び回る。上演するには、場面をつなぐ音楽がどうしても必要でした。
そこでイプセンが声をかけたのが、当時30歳ほどの作曲家グリーグです。
グリーグは「牛の糞のにおいがする」と嘆いた

依頼を受けたのは1874年。グリーグは引き受けたものの、作曲は難航しました。
劇は長く、場面は次々に変わる。山の妖怪から砂漠の踊り子まで、まるで性格の違う音楽を何十曲も用意しなければならない。完成までに1年以上かかり、グリーグはこの仕事を何度もぼやいています。
とくに有名なのが、山の魔王の宮殿でペールがトロルに囲まれる場面の音楽、『山の魔王の宮殿にて』をめぐる手紙です。
グリーグは友人への手紙で、この曲について、牛の糞のにおいがするほどノルウェー臭くて、自分でも聴いていられない、という趣旨のことを書き残しています。
その「聴いていられない」曲が、今では世界中のテレビやゲームで流れている。
低い弦楽器とファゴットが、忍び足のように同じ旋律をくり返す。少しずつ速く、少しずつ大きくなり、最後はトロルたちが大騒ぎするような音の嵐で終わります。作曲者がどれほど嫌っても、この盛り上がり方は一度聴いたら忘れられません。

劇の初演は1876年、首都クリスチャニア(いまのオスロ)の劇場でした。舞台は評判を呼び、グリーグの音楽もいっしょに知られていきます。
ただ、劇の付随音楽は、劇場の外ではなかなか演奏されません。そこでグリーグは、全体から聴きどころを選び出し、コンサート用の組曲に編み直しました。
これが『ペール・ギュント』第1組曲と第2組曲です。
組曲は、劇の順番どおりに並んでいない
第1組曲に入っているのは、次の4曲です。
- 『朝』……第4幕、モロッコの砂漠の夜明け
- 『オーセの死』……ペールの母オーセが息を引き取る場面
- 『アニトラの踊り』……砂漠で予言者になりすましたペールの前で、族長の娘アニトラが踊る
- 『山の魔王の宮殿にて』……第2幕、トロルの王の宮殿
並びを見てほしいのは、ここです。
劇の中で最初に起こるのは、4曲目の『山の魔王の宮殿にて』。『朝』は物語のずっと後半の場面なのに、組曲では先頭に置かれています。グリーグは物語の順番より、コンサートとしての流れを優先しました。
穏やかな朝で始まり、弦楽器だけの重い葬送の音楽が続く。軽やかな踊りで気分を変え、最後はトロルの大騒ぎで締めくくる。
この順番のおかげで、『朝』は「一日の始まり」の曲として独り立ちしました。劇の筋を知らなくても、組曲の冒頭に置かれた穏やかな旋律は、そのまま朝の音楽として聞こえる。北欧の朝と思われるようになった理由の一つは、この並べ替えにあります。
2曲目の『オーセの死』は、弦楽器だけで書かれています。劇の中のペールは、死の床にある母の枕もとに座り、そりに乗ってお城へ向かうほら話を語って聞かせる。ほら吹きの息子が、最後だけは母のために話を作る場面です。
3曲目の『アニトラの踊り』も、のどかな異国の踊りでは終わりません。踊り終えたアニトラは、ペールの金と馬を奪って走り去ってしまう。砂漠に来てからのペールは、盗まれてばかりです。
第2組曲の最後には『ソルヴェイグの歌』が入っています。年老いて故郷に戻ったペールを、ソルヴェイグが待ち続けていた、という劇の結末につながる歌です。
砂漠で朝を迎えた男は、最後に、置き去りにした女性のもとへ帰っていきます。
よくある質問
Q. 『朝』の旋律がノルウェー風に聞こえるのはなぜですか?
グリーグはノルウェーの民謡を研究し、その響きを多くの作品に取り入れた作曲家でした。舞台がモロッコでも、旋律の書き方そのものには北欧の作曲家らしさが残っています。
Q. 劇の全曲版も聴けますか?
付随音楽をほぼすべて収めた録音もあります。組曲には入っていない合唱や歌の場面も含まれ、劇の流れに沿って聴くことができます。
Q. グリーグのほかの代表作は何ですか?
25歳ごろに書いた『ピアノ協奏曲 イ短調』が有名です。冒頭のティンパニの一打から、ピアノが滝のように駆け下りる始まりは、『朝』と並んでよく知られています。小さなピアノ曲を集めた『抒情小曲集』も、生涯にわたって書き継がれました。
まとめ
- 『朝』は、イプセンの戯曲『ペール・ギュント』のためにグリーグが書いた劇音楽の一部
- 描かれているのは、第4幕、モロッコの砂漠で財産を失った主人公が迎える夜明け
- グリーグは劇音楽から組曲を編み、物語の後半にある『朝』を先頭に置いた
- 作曲者が嫌った『山の魔王の宮殿にて』も、同じ劇のための1曲
今夜聴くなら、第1組曲の4曲を、劇の筋を思い浮かべながら順に通してみてください。1曲目の朝日を浴びているのは、すべてを盗まれた男です。
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