エゴン・シーレとは?28年で燃え尽きた画家の生涯と「ねじれた自画像」の見方

留置場の独房に、紙と絵の具が差し入れられました。
1912年の春、ウィーン郊外の小さな町。21歳の画家は、独房の扉を描き、毛布を描き、痩せた自分の手を描きました。描く道具を取り上げられかけた人間が、それでも描く。
エゴン・シーレの絵は、この切迫感でできています。
生きたのは28年。画家として動けた期間は10年ほど。その短い時間に、骨の浮いた身体、折れ曲がった指、こちらを睨む目を、数えきれないほど紙に刻みました。きれいでも心地よくもない。それなのに目が離せない。美術館でそう感じたことは、ありませんか。
なぜあんな絵になったのか。答えは、駅長の家に生まれた少年の話から始まります。
列車ばかり描いた駅長の息子が、14歳で父を失うまで
シーレの最初の画題は、列車でした。
1890年、ウィーン近郊の町トゥルンに生まれます。父は鉄道の駅長。線路と駅舎に囲まれて育った少年は、幼い頃から列車の絵ばかり描いていたと伝えられています。
その父が、シーレが14歳のときに亡くなります。晩年の父は精神を病み、家族の目の前で症状が進んでいきました。病んだ身体、死の気配、家族への複雑な感情。後年の作品に繰り返し現れるものの原型を、この時期に見る研究者は少なくありません。
父の死後、後見人になったのは伯父です。伯父は画家になることに反対しました。それでも周囲の説得があり、16歳でウィーンの美術アカデミーへの入学が認められます。当時としては異例の若さです。
ただし、その学校に長くいる気は、本人にはなかったようでした。
石膏像より、クリムト——16歳のアカデミーと28歳年上の恩人

アカデミーの教育は、石膏像を正確に写すことでした。
古典的で厳格な教授の指導に、シーレは早々に苛立ちます。3年ほどで学校を離れ、同じ不満を抱えた仲間と「新芸術家グループ」を結成しました。
その前後、10代のシーレは思い切った行動に出ます。当時のウィーン画壇でいちばんの大家だったグスタフ・クリムトのもとへ、自分の絵を抱えて訪ねたのです。『接吻』の金色なら、あなたも一度は見たことがあるはずです。
クリムトは28歳年上でした。それでもこの若者の絵を認め、素描を買い取り、自分の絵と交換し、画商やパトロンや工房を紹介します。若い才能を後押しすることに労を惜しまない人でした。シーレにとって最初の理解者であり、道を開いた恩人です。
初期の絵には、装飾的な模様や金の色づかいなど、クリムトの影響がはっきり残っています。その時期は、長くは続きませんでした。
背景は空白、身体はねじれる——シーレの線はなぜ「痛い」のか
数年でシーレが行き着いたのは、装飾の反対側でした。
模様を削ぎ落とし、背景を空白のまま残し、そこに人間の身体だけを置く。手足は不自然にねじれ、肩は角ばり、指は限界まで開かれている。皮膚には赤や緑が斑に置かれ、生きているのか傷んでいるのかわからない質感になります。
いちばんの武器は、線です。
シーレの輪郭線は迷いがなく、途中で止まらず、身体の形を刃物のように切り出します。素描を見ると、鉛筆が紙の上をほとんど一筆で走っているのがわかる。この速さと正確さは、当時から高く評価されていました。
私はシーレの素描を見るたび、絵より先に手の動きを想像してしまいます。ためらいの跡がどこにもない。あの線を引くのに何秒かかったのだろう、と。
自画像の数も異様です。裸で、痩せこけて、顔を歪め、時に叫び、時に無表情でこちらを見る。ナルシシズムというより、自分の身体を実験台にして「人間はどう見えるか」を確かめ続けているような描き方です。

風景も同じ手で描かれました。母の故郷である南ボヘミアの古い町クルマウを描くと、家々が斜面に折り重なり、人間の集団のように見えてくる。シーレの手にかかると、建物も木も、どこか身体めいた表情を持ちはじめます。
その「身体」が、ある町で問題になりました。
21歳で留置場へ——ノイレングバッハ事件と独房の水彩
1912年、シーレは人生最大の躓きを経験します。
当時の恋人でモデルでもあった女性ヴァリ・ノイツィルと、ウィーン郊外の町ノイレングバッハに移り住んでいた頃のことです。住民との軋轢の末に、逮捕されました。
未成年者に関わる重い嫌疑は取り下げられます。ただ、子どもの目に触れる場所に性的な素描を置いていたことが問題とされ、有罪となりました。拘留は3週間あまり。法廷では、彼の素描の一枚が裁判官の手で焼かれたと伝えられています。
冒頭の場面は、この独房です。
壁、扉、毛布、そして自分。留置中に残された水彩には、絵を取り上げられかけた人間の切迫がそのまま残っています。
事件は評判に傷を残しました。ところが制作は止まりません。むしろこの後、絵からは初期の露悪的な尖りが少し引き、人物の存在感がどっしりしてきます。
そして3年後、彼はもう一人の女性と別れることになります。
『死と乙女』——結婚、別れ、そして戦場に行かなかった兵役

抱き合っているのに、もう離れている。
1915年の『死と乙女』は、そういう絵です。僧衣のような黒い服の男が、女を抱く。女は男の背に腕を回し、胸に顔を寄せている。それでも二人は、もう離れている。二人の下に敷かれた白い布は、寝床というより岩場の上に見える。シーレの絵の中でも、とりわけ忘れがたい一枚です。
同じ1915年、シーレは中流家庭の娘エーディト・ハルムスと結婚します。長く関係を続けてきた恋人ヴァリとは、このとき別れました。『死と乙女』には、その別れの感情が刻まれていると読まれています。
結婚の数日後、第一次世界大戦の兵役に就きました。幸い前線には送られず、任務は捕虜収容所の事務や警備が中心。制作を続けることも許されました。戦時下で描いたのは、捕虜やロシア兵の肖像です。
戦争はまだ続いていました。その中で、彼の順番が回ってきます。
主役になった1918年、そして妻の3日後
1918年、状況が一変します。
ウィーンの分離派会館で開かれた展覧会で、シーレは中心作家として大きな部屋を任され、作品はよく売れました。長く「危険な若手」と見られてきた画家が、ついに主役の座に着いた年です。同じ年の2月、恩人クリムトはすでに世を去っていました。
その秋、スペイン風邪の大流行がウィーンを襲います。
妊娠していた妻エーディトが、10月末に死亡。シーレ自身も感染し、その3日後に亡くなりました。28歳でした。制作途中だった家族像の絵は、未完成のまま残されています。
主役になった年と、世を去った年は、同じ年です。
よくある質問
Q. エゴン・シーレの絵はどこで見られる?
オーストリア・ウィーンのレオポルト美術館とベルヴェデーレ宮殿の美術館が、まとまった数を所蔵しています。日本国内では、企画展として海外から作品が来ることがあります。開催情報は各美術館の公式サイトで確認するのが確実です。
Q. クリムトとシーレは何が違うの?
クリムトの絵は金や模様で画面を満たし、装飾の中に人物を溶け込ませます。シーレは逆に、背景を空白にして身体だけを取り出す。同じウィーンで、装飾に包む画家と、装飾を剥ぎ取る画家が、師弟のような関係にあったわけです。
Q. 初心者はどの作品から見るといい?
まず自画像を一枚、次に素描を一枚。油彩の強い色に驚く前に、鉛筆の線だけで人体を捉えた素描を見ると、奇抜さより先に「手の速さ」が伝わります。
まとめ
- エゴン・シーレは1890年、オーストリアのトゥルン生まれ。14歳で父を失った
- 16歳でアカデミーに入り、3年で離脱。28歳年上のクリムトが最初の理解者になった
- 背景を空白にし、身体をねじる。鋭い線と大量の自画像が作品の核
- 21歳でノイレングバッハ事件。独房でも描き続けた
- 1918年に主役の座に着き、同じ年の秋、スペイン風邪で28歳で死去
独房で扉と毛布を描いた21歳は、その6年後にウィーンの主役になり、同じ年に世を去りました。
画集を開くなら、油彩のページより先に素描のページをめくってみてください。一本の線がどこで止まり、どこで走っているかを追うだけで、シーレの絵の見え方は変わります。
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