なぜスーラは絵の具を混ぜないのか?『グランド・ジャット島』の点描

スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-86年、シカゴ美術館蔵
スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』1884-86年、シカゴ美術館蔵

一歩、近づいてみてください。

日傘をさした女性の顔が、消えます。残るのは、青とオレンジと緑の小さな粒。三歩下がると粒は消え、セーヌ川の中州で日曜日を過ごす人々が戻ってくる。

ジョルジュ・スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』。縦約2メートル、横約3メートルの画面が、すべてこの粒でできています。

描いた本人は、完成の5年後に31歳で死にました。画家として働けたのは、十年ほど。その短い時間で、彼は「絵の具は混ぜて使うもの」という当たり前を書き換えています。

なぜ点で描いたのか。答えは「きれいだから」ではありません。

スーラはなぜ絵の具を混ぜなかったのか——点描のしくみ

出発点は、誰もが経験する失敗です。

緑がほしいとき、パレットで青と黄色を混ぜますよね。ところが絵の具は、混ぜるほど濁って暗くなる。何色も混ぜて灰色っぽい泥を作ってしまった記憶は、図工の時間に一度はあるはずです。

スーラの答えは単純でした。混ぜなければいい。

青の点と黄色の点を隣り合わせに置く。混ぜるのは絵の具の上ではなく、見る人の目のなか。これが点描、そして「視覚混合」と呼ばれる考え方です。

影を描くときも黒を使いません。日なたの色の反対側にある青や紫の粒を打ち込んで、影を作る。だからスーラの影は、暗いのに沈みません。

この理屈は、彼が独学で思いついたものではありません。染色の研究者シュヴルールが唱えた「隣り合う色は互いの見え方を変える」という法則。アメリカの物理学者ルードが説いた、光の混色と絵の具の混色の違い。当時の色彩科学の本を読み込み、そのまま絵の作り方に翻訳したのがスーラでした。

ただ、現代の目で見ると、この理論は完全には成立していません。実際の鑑賞距離で粒は溶け合いきらず、点で置いた絵の具は光ほど明るくならない。それでも、混ざりきらずにざわめく状態そのものが、画面に空気の震えを与えました。

では、その技法をなんと呼ぶか。ここで本人と世間の意見が食い違います。

「点描」と呼ばれるのを、スーラ本人は嫌がった

スーラと仲間たちが好んだ呼び名は「分割主義(ディヴィジョニスム)」でした。

大事なのは点の形ではない。色を分けて置く、という原理のほうだ。点はその手段にすぎない。そう考えていたので、「点描」という呼び方は、彼らにとって表面だけを見た言葉だったわけです。

もうひとつの名前は、批評家フェリックス・フェネオンがつけました。「新印象派」。モネやルノワールの次の世代、という位置づけです。こちらが定着しました。

つまり、点描・分割主義・新印象派は、同じ絵を三つの角度から呼んだ名前。覚えるのは「混ぜずに分けて置く」の一点で足ります。

その「次の世代」は、前の世代と何が違ったのか。

印象派の「一瞬」に、スーラは「永遠」で答えた

同じ明るい絵に見えて、作り方は正反対です。

スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』のための油彩習作、1884年。小さな板に屋外で描いたもの
スーラ『グランド・ジャット島の日曜日の午後』のための油彩習作、1884年。小さな板に屋外で描いたもの

印象派の画家たちは、屋外で光をすばやく捉えることを重視しました。移ろう一瞬を逃さないための、速い筆。対してスーラは、屋外では小さな板に習作を大量に描いて材料を集め、大画面はアトリエでゆっくり組み立てました。感覚と即興に対して、理論と設計。

目指したものも違います。彼は、現代の人々を古代の浮き彫りのように厳かに配置したい、という意味の言葉を残しています。だから彼の絵の人物は、歩いている最中でも彫像のように止まって見える。

この姿勢を支えたのは、育ちと訓練でした。

パリの裕福な家に生まれ、絵を売って食べる必要がなかった。だから一枚に何年でもかけられた。国立美術学校では、コンテ・クレヨンの素描を叩き込まれました。輪郭線を使わず、明暗の階調だけで人の姿を浮かび上がらせる技です。「線ではなく調子で形を作る」。点描はこの訓練の延長線上にあります。

その最初の成果は、グランド・ジャット島の対岸に置かれました。

『アニエールの水浴』——対岸から見た、もうひとつの日曜日

スーラ『アニエールの水浴』1884年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵
スーラ『アニエールの水浴』1884年、ロンドン・ナショナル・ギャラリー蔵

川べりの草地に、上半身裸の若者たちが座っています。遠くには工場の煙突。パリ郊外アニエールで水浴びをする労働者の休日を描いた、スーラ最初の大作です。

制作は1884年。国の展覧会サロンに落選し、同じ年に若手が自分たちで開いた「アンデパンダン展」に出品されました。この時点では、まだ全面が点ではありません。筆を交差させる描き方が中心で、点はのちに一部へ描き足されたものです。

注目してほしいのは、場所です。アニエールの岸から川を渡ったところにあるのが、グランド・ジャット島。『水浴』の若者たちが見つめる先に、次の絵の舞台があります。

労働者の岸と、着飾った市民の島。同じセーヌ川の日曜日が、二枚の大画面で向かい合っています。

そして島のほうの絵は、2年がかりの作業になりました。

縦2メートル横3メートル、40人が誰とも目を合わせない

この絵の第一の驚きは、大きさです。

縦約2メートル、横約3メートル。本来なら歴史画や宗教画のための画面に、日曜日に散歩する普通の人々が描かれています。主題と規模のちぐはぐさ自体が、当時の挑戦でした。

画面には40人を超える人物と、犬と、紐につながれた猿がいます。多くが横向きか正面向きに固定され、誰も他人と交わっていません。にぎやかな行楽地なのに、会話の気配がない。

私はこの絵を、楽しげな休日の絵だとは思えません。静かすぎる。ただ、その静けさがこの絵を忘れられなくしているとも思います。

もうひとつ見逃せないのが、縁取りです。スーラは画面のまわりに点で描いた帯を設け、隣り合う色に応じて帯の色を変えました。壁の白や既製の額の金色が絵の色を狂わせるのを嫌ったからです。制作した本人が、見る条件まで設計していた。

なお、いま見える色は完成当時よりくすんでいます。使った顔料の一部が経年で変色し、本来はもっと明るい黄緑が広がっていたと考えられています。

1886年、この絵は第8回印象派展に並びました。印象派展の最後の回です。反応は賛否が激しく分かれました。年長のピサロが一時この技法を取り入れ、パリに出てきたばかりのゴッホも点や短い線を並べる描き方を試しています。

ただ、スーラ本人に残された時間は、あと5年でした。

未完の『サーカス』を残して、31歳で

スーラ『サーカス』1891年、オルセー美術館蔵
スーラ『サーカス』1891年、オルセー美術館蔵

白い馬の背に立つ曲芸師。赤い髪の道化。客席の観客まで、全部が点で組まれています。

1891年、スーラは感染症とみられる急な病で世を去りました。31歳。この『サーカス』は未完成のまま展覧会場に掛けられていました。さらに数週間後、幼い息子も同じ症状で亡くなっています。

短い生涯で完成させた大型作品は、両手で数えられるほど。それでも、色を分けて置くという発想は絵画に残り続けました。色面を並べて画面を組み立てる考え方は、20世紀の抽象絵画へつながっていきます。ミュージカルの題材にもなっています。

31歳で止まった仕事が、その後の絵の見方を変えました。

よくある質問

Q. 点描の絵は、どのくらい離れて見ればいい?
決まりはありません。まず腕を伸ばした距離まで近づいて粒を確認し、次に画面の対角線の長さと同じくらい離れてみてください。粒が像に切り替わる瞬間があります。この往復が、スーラの絵の楽しみ方です。

Q. 点描と印象派の筆づかいは、何が違うの?
印象派の筆跡は、対象の動きや勢いを写した結果として残ったもの。スーラの点は、色を分けて置くという計画にもとづいて打たれたもの。偶然の跡か、設計された単位か。この差が両者を分けます。

Q. 『グランド・ジャット島の日曜日の午後』は日本で見られる?
本作はシカゴ美術館の所蔵で、館外への貸し出しは行われていません。見るには現地を訪ねる必要があります。国内で小品や習作が展示されることはあるので、公式サイトで確認してください。

まとめ:近づいて、下がる

  • スーラは絵の具を混ぜず、原色の粒を並べて見る人の目のなかで混ぜた(視覚混合)
  • 本人が好んだ呼び名は「分割主義」。「新印象派」は批評家がつけた名前
  • 一瞬を狙う印象派に対し、習作を積み上げて「永遠」の構図を設計した
  • 31歳で急死したが、色を分けて置く発想は20世紀の絵画へ受け継がれた

冒頭の一歩を、画集でもう一度やってみてください。日傘の女性の肩を拡大する。輪郭に見えていた線が、青とオレンジの粒に分かれる。離れると、また肩に戻る。

その往復のあいだに、スーラの十年があります。

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