ミュシャとは?アール・ヌーヴォーの代表作から『スラヴ叙事詩』まで、その生涯をやさしく解説

1895年の元日、パリ。
街角に、縦2メートルを超える細長いポスターが現れました。描かれているのは、ほぼ等身大の女優がひとり。当時のポスターの常識だった派手な原色はどこにもなく、くすんだ金と淡い色が静かに光っています。
通行人が足を止めました。夜のうちに剥がして持ち帰る人が続出したと伝えられます。
描いた人物の名は、アルフォンス・ミュシャ。チェコ出身の34歳。前日まで、ほぼ無名の画家でした。
この1枚は、1週間ほど前のクリスマス休暇に、偶然から生まれています。
クリスマスの印刷所に、大女優サラ・ベルナールから緊急の依頼が来た
1894年の年の瀬、パリの印刷所に大女優サラ・ベルナールから連絡が入ります。新作舞台『ジスモンダ』のポスターを、年明けまでに作ってほしい。ところがクリスマス休暇の真っ最中で、専属の画家はみな出払っていました。
たまたま居合わせたのが、挿絵の仕事で食いつないでいたミュシャです。校正刷りの手伝いで印刷所に出入りしていた無名画家に、大女優のポスターという大仕事が転がり込みました。広く語られてきた逸話です。

サラ・ベルナールは当時、ヨーロッパ随一の舞台スターでした。機嫌を損ねれば、それで終わり。ところが彼女は、届いたポスターをひと目で気に入ります。そのままミュシャと長期の契約を結びました。以後、舞台のポスターだけでなく、衣装や舞台装置までミュシャが手がけます。
無名の挿絵画家の人生は、年末年始の数日でひっくり返りました。
パリ中がこの新人の名を知りたがります。次に殺到したのは、劇場ではなく企業でした。
タバコの巻紙から自転車まで——「ミュシャ様式」の時代

『ジスモンダ』以降、ミュシャのもとには広告の依頼が押し寄せます。タバコの巻紙、シャンパン、ビスケット、自転車。うねる長い髪の女性と植物の曲線で埋めた彼のポスターは、そのままパリの街の風景になりました。
上の『JOB』は、タバコの巻紙の広告です。肝心の商品は、指先に小さく見えるだけ。画面を支配しているのは、渦を巻く金色の髪です。広告なのに、部屋に飾りたくなる。ここが新しかったところです。
その需要を見抜いて、ミュシャは「装飾パネル」と呼ばれる文字なしの観賞用版画も作ります。『四季』のような連作は、高価な油絵に手が届かない中産階級の壁を飾り、飛ぶように売れました。
この様式は当初「ミュシャ様式」と呼ばれていました。後にそれが、ヨーロッパ中に広がった装飾芸術の運動、アール・ヌーヴォー(「新しい芸術」の意味)の代表格として括られます。ミュシャは装飾の型紙集『装飾資料集』まで出版しました。自分の様式を囲い込まず、誰でも使える型として差し出したことも、世界中に広まった理由のひとつです。
その広まり方は、日本では少し特別でした。
ミュシャの絵が日本人に「懐かしい」理由
日本のミュシャ人気は群を抜いています。展覧会には長い列ができ、図録やグッズは早々に売り切れる。この人気には、行きと帰りの二つの縁があります。
行きは、浮世絵です。アール・ヌーヴォー自体が、19世紀後半の欧州を席巻した日本趣味——ジャポニスムの影響を受けていました。輪郭線で形をくっきり囲む描き方、平らな色面、大胆な構図。ミュシャの画面には、浮世絵と同じ道具立てが流れ込んでいます。初めて見て「なんとなく懐かしい」と感じるなら、それは根拠のある感覚です。
帰りは、漫画とイラストです。細い線の人物、流れる髪の装飾、背景の花と光の輪。少女漫画やファンタジーのイラストがミュシャから受け取ったものは大きく、影響を公言する作家も少なくありません。大阪・堺市には、日本人コレクターの収集を核にした専門ミュージアムもあります。展示は入れ替わるので、訪問前に公式サイトを確認してください。
ここまでが、よく知られた「華やかなミュシャ」です。本人はその頂点で、別のことを考えていました。
50代のミュシャはなぜパリの名声を捨てたのか
売れっ子の胸には、ずっと引っかかっている問いがありました。自分は本当に描きたいものを描いているのか。
転機は1900年のパリ万国博覧会です。ボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を任され、準備のために現地を旅しました。そこで向き合ったのは、大国に支配されてきたスラヴ系の人々の暮らしです。ミュシャの故郷モラヴィア(現在のチェコ東部)も、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。スラヴ民族の歴史を自分の手で描き残す。その構想が固まっていきます。
ただ、巨大な歴史画に買い手はつきません。資金はアメリカで見つけました。渡米して肖像画や教職で人脈を築き、実業家から長期の支援を取り付けます。
そして50代。パリの華やかな仕事を手放し、故郷の地へ戻って城のアトリエにこもりました。
取りかかったのは、1枚で壁一面を覆う絵の、20枚組です。
『スラヴ叙事詩』——縦6メートルの絵を、18年かけて20枚

『スラヴ叙事詩』は、スラヴ民族の神話と歴史を描いた全20点の連作です。大きいものは縦6メートル、横8メートル。見上げる画面いっぱいに、群衆、戦場、祈る人々が広がります。完成までに、およそ18年かかりました。
ポスターの華やかさは、ここにはありません。画面は重く、静かです。勝利の場面より、耐えている人々の顔が多い。私は画集で『ジスモンダ』からこの連作までページをめくるたび、同じ人の絵だと一瞬信じられなくなります。
完成した連作は、独立したばかりのチェコスロヴァキアの首都プラハに寄贈されました。ところが当時の評価は冷ややかでした。前衛芸術の時代に、民族の歴史を大画面で語る絵は「古い」と見られたからです。
この絵の意味が急変するのは、1939年でした。
ナチスに連行された78歳——ミュシャの最期
1939年、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアを解体し、プラハに進駐します。スラヴ民族の誇りを描き続けた画家は、真っ先に危険人物と見なされました。78歳のミュシャは連行され、尋問を受けます。
釈放はされたものの健康を大きく損ない、その年のうちに世を去りました。
華やかなポスターの画家。その記憶だけで語るには、最期があまりに重い。ミュシャの生涯は、一枚の絵が権力に恐れられた記録でもあります。
よくある質問
Q. 「ミュシャ」と「ムハ」、どちらが正しいの?
同じ人物です。チェコ語の発音に近いのは「ムハ」、フランス語読みが「ミュシャ」。パリで名を上げた経緯から、日本ではフランス語読みが定着しました。展覧会や書籍では「ムハ」表記も使われます。
Q. ミュシャの絵を見分けるコツは?
目印は三つ。女性の頭の後ろの円形装飾(光の輪のような形)、画面を縁取る植物の曲線、輪郭をはっきり取ってから淡い色を置く塗り方。三つ揃っていれば、ミュシャ様式の系譜と考えてまず間違いありません。
Q. ポスターと『スラヴ叙事詩』、どちらから見るべき?
入り口はポスターで構いません。ただ、必ず両方見てください。あの華やかな仕事をなぜ捨てたのか。その落差こそ、ミュシャという画家の芯です。
まとめ:元日の街角から、壁一面の絵まで
- 無名だったミュシャは、1895年元日に貼り出された『ジスモンダ』の1枚でパリの寵児になった
- 曲線と装飾の「ミュシャ様式」は、アール・ヌーヴォーの代表として世界に広まった
- 浮世絵からの影響と、漫画・イラストへの波及が、日本での人気を支えている
- 50代で商業的な成功を離れ、約18年かけて全20点の『スラヴ叙事詩』を完成させた
- 1939年、ナチスに連行されたのち死去。享年78
画集を開いたら、ポスターのページで閉じないでください。後半の、色の沈んだ巨大な絵まで進んだとき、元日のパリで足を止めた通行人とは別の驚きが待っています。
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