ベラスケス入門|『ラス・メニーナス』の鏡はなぜ観客を絵の中に引き込むのか

絵の中から、画家がこちらを見ています。
左手にパレット、右手に筆。大きなカンバスの前で手を止めて、視線はまっすぐ絵の外へ。つまり、この絵の前に立ったあなたへ。
描かれているのは、あなたです。
そんなはずはない、と思ったら画面の奥を見てください。壁に掛かった小さな鏡に、二人の人物がぼんやり映っています。スペイン国王フェリペ4世と王妃マリアナ。二人が立っているのは絵の外、今あなたがいる場所です。
350年前の画家ディエゴ・ベラスケスが仕掛けた、美術史でいちばん有名なトリック。ここから種明かしを始めます。
『ラス・メニーナス』の主役は誰か——答えは画面の外にいる
1656年、マドリードの王宮。高さ3メートルを超える大画面に、11人と犬1匹が描かれています。
中央で光を浴びるのは、5歳の王女マルガリータ。その左右に、かしずく女官たち。タイトルの「ラス・メニーナス」は、スペイン語で「女官たち」という意味です。手前には犬が寝そべり、右端には宮廷に仕える小人たちの姿もあります。
そして左端に、筆を持ったベラスケス本人。
王女の肖像画のようで、画家の自画像のようで、宮廷の日常スナップのようでもある。ところが、よく見ると変です。王女も、女官も、画家も、視線が全員バラバラの方向ではなく、そろって画面の外へ向いています。
全員が見ているものは、何か。
その答えを映しているのが、画面のいちばん奥にある小さな鏡です。
鏡の中の国王夫妻——あなたが立っているのは王の場所

鏡に映るのは国王フェリペ4世と王妃マリアナ。二人はこの部屋にいて、絵の外側、私たち観客とまったく同じ位置に立っている計算になります。
ベラスケスが描いているのは王夫妻の肖像画で、王女はそれを見物しに来たところ。そう読む説もあれば、鏡の解釈をめぐる議論は今も続いています。決着はついていません。
ただ、一つだけ確かなことがあります。
この絵の前に立った人は、全員が「王の場所」に立たされる。絵の中の人々に見つめられ、鏡に映り込み、絵の内側へ引き込まれる。絵を「見る」という行為そのものを絵にしてしまった作品は、これが最初でした。
哲学者ミシェル・フーコーは『言葉と物』という本の冒頭で、この一枚の分析に丸ごと一章を割いています。
では、この仕掛けを考えた男は、どんな画家だったのか。
24歳で王の画家になった男と、「真実すぎる」と言われた肖像

ベラスケスは1599年、スペイン南部のセビーリャに生まれました。
若くして頭角を現し、24歳でフェリペ4世付きの宮廷画家になります。以後30年以上、王とその家族を描き続けました。王より長い時間、王の顔を見ていた男です。
その腕前を伝える逸話が、ローマにあります。
外交の旅の途中で描いた『教皇インノケンティウス10世の肖像』。玉座の教皇が、鋭い目つきでこちらをにらんでいます。完成した絵を見た教皇は「真実すぎる」と言ったと伝えられます。ほめ言葉とも、苦情ともつかない一言。権力者が相手でも、ベラスケスは美化しませんでした。
この教皇の絵は300年後、画家フランシス・ベーコンが繰り返し変奏することになります。
そして絵に近づくと、筆づかいはもっと奇妙です。
近づくと絵の具、離れると空気——200年早すぎた筆

ベラスケスの絵は、間近で見るとレースがレースに見えません。
荒い筆の跡と、絵の具のかすれ。それが数歩下がった瞬間、光をはじく銀糸の刺繍に変わります。細部を塗り込めず、目の錯覚にゆだねる描き方。印象派の画家たちが同じことを始めるのは、約200年後です。
私は、ベラスケスは「近づいて一度、離れてもう一度」の二度楽しめる画家だと思っています。距離で絵が変わる画家は、そういません。
『鏡のヴィーナス』でも、鏡が仕事をしています。
背中を向けて横たわるヴィーナスの顔は、鏡の中にだけある。しかもぼんやりと曖昧で、誰の顔ともつきません。見る人が自由に想像できる余白です。ベラスケスが残した裸婦画はこの一枚だけと言われています。
この筆とこの鏡に、200年後の画家たちが熱狂しました。
マネは「画家の中の画家」と呼び、ピカソは58回描き直した
19世紀、スペインを旅した若きマネは、プラドでベラスケスを見て衝撃を受けます。友人への手紙で彼を「画家の中の画家」と呼んだと伝えられます。黒の使い方、荒い筆致。マネを起点に、その影響は印象派へ流れ込みました。
もっと極端だったのがピカソです。
1957年、70代のピカソは『ラス・メニーナス』だけを主題に、58点もの連作を描きました。構図を分解し、色を替え、王女を何度も描き直す。この連作は現在、バルセロナのピカソ美術館がまとめて所蔵しています。一人の画家が一枚の絵に58回挑んだ例を、ほかに知りません。
ベラスケスは1660年に亡くなっているため、作品はすべてパブリックドメインです。プラド美術館の公式サイトでは、高解像度の画像を無料で隅々まで拡大できます。
よくある質問
Q. 『ラス・メニーナス』はどこで見られますか?
スペイン・マドリードのプラド美術館が所蔵しています。開館時間や料金は公式サイトで最新情報を確認してください。公式サイトの高解像度画像なら、鏡の中の国王夫妻も自宅で拡大できます。
Q. タイトルにはどんな意味がありますか?
スペイン語で「女官たち」。中央の王女マルガリータに仕える侍女たちを指します。主役のはずの王女ではなく、脇役の名前がタイトルになっている点も、この絵の謎の一つです。
Q. ベラスケスの胸にある赤い十字は何ですか?
サンティアゴ騎士団という騎士団の紋章です。ベラスケスが騎士団に迎えられたのは絵の完成後で、十字はあとから描き加えられたと伝えられます。国王自身が筆を取って描いたという伝説も残っています。
まとめ:まず鏡を探してください
- 『ラス・メニーナス』は、観客を「王の場所」に立たせる仕掛けを持つ
- 画面の奥の鏡に、絵の外にいるはずの国王夫妻が映っている
- ベラスケスは24歳から30年以上、フェリペ4世の宮廷画家を務めた
- 近づくと荒い筆、離れると本物に見える描法は印象派より約200年早い
- マネが「画家の中の画家」と呼び、ピカソは58点の連作で挑んだ
今日やることは一つ。『ラス・メニーナス』の画像を開いて、王女より先に、奥の小さな鏡を探してください。鏡の中の二人と目が合った瞬間、あなたは350年前のマドリードの王宮に立っています。
関連アイテム
この記事に関連する本・画集はこちらから探せます。
※当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。適格販売により収入を得ています。
