失恋した若者が、アヘンの夢で断頭台へ——ベルリオーズ『幻想交響曲』と、5つの楽章を貫く「恋人の旋律」

1827年9月、パリのオデオン座。
イギリスから来た劇団が、シェイクスピアの『ハムレット』を英語で上演していました。客席の若者の多くは、英語がほとんどわかりません。それでも、舞台の上でオフィーリアを演じるアイルランド出身の女優ハリエット・スミッソンに、劇場じゅうが息をのみました。
その客席に、23歳のフランスの作曲家エクトル・ベルリオーズがいました。
彼はその夜から、彼女に取りつかれます。手紙を何通も送り、彼女の住まいの近くに部屋を借りたとも伝えられます。けれど、スミッソンはこの無名の青年に会おうともしませんでした。
3年後、その片思いは、一つの交響曲になります。主人公は恋に絶望してアヘンを飲み、夢の中で恋人を殺し、断頭台に引かれていく。『幻想交響曲』です。
正直に書くと、私はこの曲を初めて聴いたとき、少し引きました。そして、それから何度も聴き返しています。
オフィーリアを演じた女優に、23歳の作曲家は一目で落ちた
ベルリオーズは1803年、フランス南東部の小さな町に生まれました。父は医者で、息子も医者にするつもりでパリの医学校に送り出します。
ところが彼は、解剖の授業に耐えられませんでした。死体の並ぶ部屋から逃げ出し、通ったのはオペラ座と音楽院の図書館。親の反対を押し切って、音楽の道に進みます。
スミッソンに出会ったのは、その数年後です。
シェイクスピアの劇そのものにも、彼は打ちのめされました。理屈より感情、整った形より激しさ。それまでのフランスの舞台にはなかった、むき出しの人間がそこにいた。恋と芸術の衝撃が、同じ夜に一度に来たのです。
この衝撃をどうするか。ベルリオーズは、音楽で物語を書くことにしました。
『幻想交響曲』は、作曲家自身が書いた「あらすじ」つきの交響曲
1830年12月、パリ音楽院のホールで『幻想交響曲』が初演されました。ベルリオーズは26歳。副題は「ある芸術家の生涯のエピソード」。
演奏会の客席には、ベルリオーズ自身が書いた「プログラム」が配られました。曲を聴く前に読んでほしい、物語のあらすじです。
病的なほど感じやすい若い音楽家が、恋に絶望してアヘンで命を絶とうとする。けれど量が足りず、死にきれずに深い眠りに落ち、奇怪な夢を見る。5つの楽章は、その夢の5つの場面です。
それまでの交響曲は、ふつう物語を持ちませんでした。ハイドンもモーツァルトも、音の形そのものを聴かせる音楽として交響曲を書いています。ベートーヴェンの『田園』には自然の描写がありましたが、ここまで具体的な筋書きはありません。
主人公がいて、恋人がいて、事件が起きて、結末がある。交響曲で一本の映画を撮るような発想でした。
恋人は一つの旋律になった——「イデー・フィクス」

この映画には、恋人役の「俳優」がいます。
それが、ある一つの旋律です。プログラムによれば、主人公の頭の中で、恋人の姿はいつも一つのメロディと結びついて現れる。ベルリオーズはこれを「イデー・フィクス(固定観念)」と呼びました。
第1楽章で、フルートとヴァイオリンが、長く、少し落ち着きのない旋律を弾きます。これがイデー・フィクスです。一度覚えてしまえば、あとは探すだけ。この旋律が、5つの楽章すべてに、姿を変えて現れます。
恋人のことを考えまいとしても、頭から離れない。音楽がそのまま、取りつかれた心の動きになっています。
舞踏会、野の風景、そして断頭台へ——第1〜4楽章
第1楽章「夢、情熱」では、恋人に出会う前の漠然とした憂い、出会ってからの燃えるような情熱が描かれます。
第2楽章「舞踏会」は、華やかなワルツ。2台のハープがきらめく中で、主人公は踊る人々の間に恋人を見つけます。ワルツの流れの中に、ふっとイデー・フィクスが混ざり込む瞬間があります。
第3楽章「野の風景」は、夕暮れの田園。遠くで2人の羊飼いが、笛で呼び交わしています。ここではイングリッシュ・ホルンと、舞台の外に置いたオーボエが掛け合う。最後、イングリッシュ・ホルンがもう一度呼びかけますが、答えは返ってきません。返ってくるのは、ティンパニがとどろかせる遠い雷鳴だけです。
私がこの曲でいちばん好きなのは、この雷の場面です。華やかさも事件もない。ただ、答えのない呼びかけと遠い雷だけで、孤独が音になっている。
そして第4楽章「断頭台への行進」。
主人公は夢の中で恋人を殺し、死刑を宣告されます。金管楽器が鳴り響く行進曲に乗って、断頭台へ引かれていく。最後の瞬間、クラリネットが恋人の旋律を一瞬だけ思い出します。その旋律は、オーケストラ全体の強烈な一撃で断ち切られる。刃が落ちる音です。続く弦のはじく音は、転がる首だといわれています。
魔女の夜宴で鳴る、葬式の聖歌——第5楽章
第5楽章「魔女の夜宴の夢」で、主人公は自分の葬式に集まった魔女や怪物たちの中にいます。
そこに、恋人の旋律が現れます。ただし、もう美しくありません。甲高い小型のクラリネットが、下品にはね回るように吹く。恋人は、魔女の一人になってしまったのです。
やがて鐘が鳴り、低い金管楽器が、中世から教会で歌われてきた死者のための聖歌「怒りの日(ディエス・イレ)」の旋律を吹きます。厳かなはずの葬送の歌が、魔女たちの踊りと重なり合い、狂ったような騒ぎの中で曲は終わります。
ヴァイオリンの弓の木の部分で弦を叩く奏法まで使い、骨がカタカタ鳴るような音を出す。1830年の聴衆が、どれほど度肝を抜かれたか。
3年後、彼女は客席にいた
物語には、現実の続きがあります。
1832年、改訂した『幻想交響曲』の演奏会に、スミッソンが招かれて来ていました。プログラムを読み、音楽を聴いた彼女は、この曲が自分のことを書いたものだと気づいたといわれます。
翌1833年、二人は結婚しました。
ただ、結婚生活は幸せとは言えませんでした。女優としての人気が落ちたスミッソンと、思うように売れないベルリオーズ。言葉の壁もありました。二人はやがて別居します。

ベルリオーズはその後、管弦楽法の本を書き、色彩ゆたかなオーケストラの使い方で、のちのワーグナーやリストに道を開きました。一つの旋律に人物を結びつける発想は、ワーグナーのオペラで大きく花開きます。
よくある質問
Q. 『幻想交響曲』の演奏時間はどれくらいですか?
50分前後です。5つの楽章を、物語の順に続けて聴くのがおすすめです。
Q. 「怒りの日」の旋律は、ほかの曲でも聴けますか?
はい。リストの『死の舞踏』やラフマニノフの作品など、多くの作曲家が引用しています。映画音楽でも、不吉な場面で使われることがあります。
まとめ
- 『幻想交響曲』は1830年初演。失恋した芸術家がアヘンの夢を見る、作曲家自身があらすじを書いた交響曲
- きっかけは、23歳のベルリオーズがパリで見た『ハムレット』の女優ハリエット・スミッソンへの片思い
- 恋人を表す旋律「イデー・フィクス」が、5つの楽章すべてに姿を変えて現れる
- 第4楽章は断頭台への行進、第5楽章は魔女の夜宴。「怒りの日」の聖歌が鳴り響く
- 二人は1833年に結婚したが、やがて別居した
この曲を、恋の歌と呼ぶべきか、ストーカーの記録と呼ぶべきか。何度聴いても、私にはまだ決められません。ただ、第3楽章の終わり、誰も答えない呼びかけのあとに遠い雷が鳴るところだけは、毎回、本物だと思います。
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