1765年、暦の交換会から「錦絵」が生まれた——鈴木春信が浮世絵をフルカラーにするまで

1765年、明和2年。江戸の浮世絵は、この1年を境に、まるで別のものになりました。
それまでの浮世絵版画は、墨1色の線に、手で色を塗るか、版で紅と緑など2〜3色を重ねるのがせいぜいでした。それがこの年から、何枚もの版木を使い、何色もの色を一枚の紙に刷り重ねた、豪華な多色刷りが現れます。
人々はこれを、京都の高級な絹織物「錦」にたとえて「錦絵」と呼びました。
北斎も、広重も、歌麿も、この錦絵の上に咲いた画家です。そして最初の錦絵を手がけた中心人物が、鈴木春信でした。
きっかけは、意外なものです。カレンダーでした。
錦絵の出発点は、旧暦の「大の月・小の月」
江戸時代の暦は、月の満ち欠けにもとづく旧暦でした。
旧暦では、1か月が30日の「大の月」と、29日の「小の月」があります。しかも、どの月が大でどの月が小かは、毎年変わる。商売をする人にとって、これは大問題でした。月末の支払いの日が、年ごとにずれるからです。
そこで流行したのが「大小(だいしょう)」と呼ばれる一枚刷りです。その年の大の月と小の月を、絵の中にこっそり隠した、なぞなぞのような暦でした。着物の柄に数字がまぎれていたり、文字が模様のふりをしていたり。見る人は、絵を眺めながら「今年の大の月はどこだ」と探す。暦でありながら、解く楽しみのある遊び道具でもありました。
暦の出版は幕府の許可が必要だったので、こうした絵暦はおおっぴらには売られず、仲間内で配り合うものでした。
1765年、この絵暦づくりが、江戸の裕福な趣味人たちのあいだで大ブームになります。旗本や商人たちがグループを作り、それぞれ絵師や彫師、摺師にお金を出して、趣向を凝らした絵暦を作らせる。そして会を開いて交換し合い、出来を競いました。
お金に糸目をつけない競争です。色は1色でも多く、紙は上等なものを、細工は細かく。
この競争の中で、春信は次々に絵暦をデザインしました。そこで生まれた技術が、そのまま錦絵になります。
何色も刷り重ねる——「見当」と、厚い紙
錦絵の前の浮世絵が、どんなものだったかを見ておきます。

17世紀の終わりごろの浮世絵版画は、墨の線だけで刷られていました。色がほしければ、刷り上がった絵に、一枚ずつ筆で塗る。やがて18世紀の半ばに、紅や緑など2〜3色を版で刷る「紅摺絵(べにずりえ)」が登場します。上の絵がその例です。
色はきれいですが、よく見ると数が限られています。紅、緑、そして墨。背景は紙の地色のまま。空も地面も描かれず、人物だけが白い紙の上に立っています。
錦絵は、この限界を一気に越えました。背景まで色で埋め、空や雪や夜まで表せるようになったのです。
多色刷りは、言葉で言うほど簡単ではありません。
色の数だけ版木を彫り、一色ずつ刷っていきます。赤の版、緑の版、黄の版。紙を毎回同じ位置に置かなければ、色が線からはみ出し、ずれてしまう。
これを解決したのが「見当(けんとう)」です。版木の角に、L字形と一直線の小さな出っぱりを彫っておき、紙の角と端をそこに合わせて置く。そうすれば、何枚版を替えても、紙は同じ位置に来ます。
「見当をつける」「見当違い」という言葉は、ここから来たといわれています。
紙も変わりました。何度も版を重ねて刷るので、薄い紙ではすぐに破れてしまう。錦絵には、奉書紙と呼ばれる厚くて丈夫な和紙が使われました。
冒頭の『塗桶の暮雪』を、もう一度見てください。
真綿を広げるための丸い台が、雪をかぶったように白く盛り上がって見えます。ここには色を刷っていません。色のない版木で紙を強く押し、裏から凹凸だけを浮き上がらせているのです。厚い紙だからこそできる技でした。
絵暦の交換会が終わると、版元たちはこの版木を手に入れ、暦の部分を削って、一般向けに売り出しました。「吾妻錦絵」。江戸で生まれた錦のような絵、という意味の、誇らしい名前です。
鈴木春信が描いた、細く小さな恋人たち

春信の絵には、すぐにわかる特徴があります。
人物が、細い。手足は小さく、首はほっそりして、顔は幼い。体の重さがほとんど感じられず、紙の上にふわりと浮いているようです。
男と女も、顔だけでは見分けがつかないことがよくあります。髪型と着物で、ようやくわかる。
上の絵では、雨の夜に、若い娘が神社へ急いでいます。風で傘があおられ、着物の裾がひるがえる。それでも、顔は静かなまま。激しく動いているのは、着物と雨だけです。
私は、春信の絵のこの「静けさ」が好きです。のちの歌麿のような色気も、写楽のような迫力もない。けれど、雨の音だけが聞こえてくるような絵は、春信にしか描けません。
谷中の茶屋の看板娘、笠森お仙

春信の錦絵は、江戸の町の「人気者」も生みました。
谷中の笠森稲荷の前にあった水茶屋に、お仙という娘がいました。春信は、このお仙を何度も錦絵に描きます。上の絵でも、鳥居の前で、盆を手にした娘が立っています。
錦絵が売れると、お仙の評判は江戸中に広がりました。一目見ようと、茶屋に客が押し寄せる。お仙の姿を描いた手ぬぐいや双六まで作られたといわれます。
ある日、お仙は茶屋から姿を消しました。
お仙は武家に嫁いでいたのですが、事情を知らない人々のあいだで噂が飛び交った、と伝えられます。会えるはずの看板娘がいない。茶屋には、お仙の父親が座っていたそうです。
一枚の版画が、町の女性を一躍有名にする。錦絵は、江戸の人々にとって、最新のメディアでもありました。
錦絵からわずか5年——鈴木春信の早すぎる死
春信は1770年に亡くなります。錦絵が生まれて、わずか5年ほどでした。
生まれた年ははっきりわかっておらず、40代半ばだったと考えられています。錦絵以前の経歴にも、わかっていないことが多い画家です。
それでも、この5年で浮世絵の作り方は決定的に変わりました。春信のあとに出てくる鳥居清長、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川広重。全員が、多色刷りの錦絵を当たり前の道具として使っています。
よくある質問
Q. 錦絵と浮世絵は同じものですか?
浮世絵は、江戸時代の風俗を描いた絵全体を指す言葉です。肉筆画も版画も含みます。錦絵は、そのうち多色刷りの版画のことです。
Q. 鈴木春信の作品はどこで見られますか?
日本国内の美術館のほか、海外の美術館に多く所蔵されています。展示は時期によって変わるので、見に行く前に各館の公式サイトで確認してください。
まとめ
- 1765年、江戸の趣味人たちの「絵暦交換会」から、多色刷りの錦絵が生まれた
- 絵暦は、旧暦の大の月・小の月を絵の中に隠した、なぞなぞのような暦だった
- 「見当」で紙の位置を合わせ、厚い奉書紙に何色も刷り重ねる技術が確立した
- 中心にいた鈴木春信は、細く静かな人物像で人気を集め、笠森お仙を江戸の有名人にした
北斎の『神奈川沖浪裏』の青も、広重の雨も、もとをたどれば、江戸の趣味人たちが競って作ったカレンダーに行き着きます。次に浮世絵を見るときは、色の数を数えてみてください。その一色一色に、1枚ずつ版木があります。
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