株の仲買人をやめ、タヒチへ——ゴーギャン『我々はどこから来たのか』にたどり着くまで

1897年の暮れ。南太平洋のタヒチ島の小屋で、49歳の画家が、横幅3メートル70センチを超える麻布に最後の筆を入れていました。
金はなく、体は病に冒されている。その年の春には、フランスに残してきた娘が19歳で亡くなったという知らせが届いていました。
完成した絵の左上の隅に、彼は三つの問いを書きつけます。
我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。
ポール・ゴーギャンが「遺言のつもりで描いた」と手紙に書いた絵です。ただ、この絵にたどり着くまでの道のりは、絵と同じくらい長い。20年前の彼は、パリの証券取引所で働く、裕福な株の仲買人でした。
日曜画家だった株の仲買人が、35歳で会社を辞めるまで
ゴーギャンは1848年、パリに生まれました。1歳のとき一家で南米ペルーへ渡り、首都リマで幼い日々を過ごしています。南国の記憶は、のちの人生に長い影を落とすことになります。
若いころは船乗りとして世界の海を回り、20代の前半からパリで株の取引の仕事につきました。仕事は順調で、デンマーク人の妻メットとのあいだに5人の子どもが生まれます。
絵は、日曜日の趣味でした。
ただ、趣味の域は早くから超えていました。稼いだお金でピサロやセザンヌ、マネの絵を買い集め、ピサロからは直接絵を教わった。1880年代には、印象派の画家たちの展覧会に自分の作品を出品するまでになります。

1882年、パリの株式市場が暴落します。翌1883年、35歳のゴーギャンは仕事を辞め、画家として生きると決めました。
収入は途絶えます。妻は子どもたちを連れて故郷のコペンハーゲンへ帰り、一家は離ればなれになりました。
『説教のあとの幻影』——赤い地面は、目に見えたものではない

画家になったゴーギャンは、パリよりも暮らしの安いフランス北西部ブルターニュ地方の村、ポン=タヴェンに通うようになります。民族衣装を着た女性たちが、日々の暮らしの中で祈りを欠かさない土地でした。
1888年、ここで描いたのが上の一枚です。
白い頭巾をかぶった村の女性たちが、教会で説教を聞いたあと、目を閉じて祈っている。右上では、旧約聖書に出てくるヤコブが、翼のある天使と取っ組み合っています。説教で聞いた話が、女性たちの心の中に浮かんだ「幻」です。
地面は、真っ赤に塗られています。
もちろん、実際の地面は赤くありません。これは目に見えた色ではなく、祈る人々の心の中の色です。輪郭線で区切った平らな色の面、斜めに画面を横切る木。日本の浮世絵から学んだとされる大胆な構図も見て取れます。
見たままの光を描く印象派から、心の中にあるものを色と形で描く絵へ。ゴーギャンが、仲間の印象派と違う道へ踏み出した一枚でした。同じ年の秋、南フランスのアルルで、彼はゴッホと約2か月の共同生活を送ります。それが、ゴッホが自分の耳を傷つける事件で終わったことは、よく知られています。
ゴーギャンが渡ったタヒチは「楽園」ではなかった

ヨーロッパの文明から離れて、素朴な土地で描きたい。1891年、43歳のゴーギャンは、自作の絵を競売にかけて旅費を作り、フランスの植民地だったタヒチへ渡りました。
着いてみると、島は思い描いた楽園ではありませんでした。
中心の町パペーテには役所と教会と商店が並び、人々は宣教師が持ちこんだ長いワンピースを着ていた。古い神々の信仰も、ほとんど消えかけていたのです。ゴーギャンは町を離れて村に住み、自分が見たかったタヒチを、半ば想像で描いていきます。
上の『タヒチの女』では、右の女性が宣教師の持ちこんだ服を、左の女性が伝統的な腰布を身につけています。古いタヒチと新しいタヒチが、浜辺に並んで座っているわけです。
一方で、ゴーギャンが現地で10代の少女たちと暮らしたことは、今日では植民地の支配する側の振る舞いとして厳しく批判されています。彼の絵の「楽園」は、彼の目から見た楽園でした。そのことも知ったうえで見たい絵です。
1893年にいったんパリへ戻りますが、タヒチの絵はほとんど売れませんでした。1895年、彼は二度と戻らないつもりで、再び島へ向かいます。
『我々はどこから来たのか』は、右から左へ読む人の一生
冒頭の絵に戻りましょう。縦1メートル39センチ、横3メートル75センチ。ゴーギャンが描いた中で最大の作品です。昼も夜も休まず、およそ1か月で描き上げたと、本人は手紙に書いています。
この絵は、右から左へと読んでいきます。
右端では、赤ん坊が眠っています。そのそばに、若い女性たちが座っている。中央では、大きな人物が両手を上げて、木から果実をもいでいます。人生の真ん中、いちばん力にあふれた時期です。
左へ進むと、果実を食べる子ども、後ろに立つ青い神像。そして左端には、膝を抱えてうずくまる老女がいます。足もとの白い鳥は、トカゲをつかんでいる。ゴーギャンは手紙の中で、この鳥を言葉のむなしさを表すものだと説明しました。
誕生から、生、そして死へ。
絵を描き上げたあと、彼は山に入ってヒ素を飲み、死のうとしたと、友人への手紙に書いています。命は助かりました。ただ、この絵が彼にとって、人生のすべてを注いだ答えだったことは確かです。
私はこの絵の前に立つと、三つの問いのどれにも、絵が答えていないことに気づきます。答えのかわりに、人の一生が、ただ横一列に並べられている。
ゴーギャンの死から3年後、パリで若い画家たちが見つけた
1901年、ゴーギャンはさらに遠いマルキーズ諸島のヒバオア島へ移ります。教会や役人とたびたび衝突しながら絵を描き続け、1903年、54歳で亡くなりました。
評価が大きく変わったのは、その死後です。
1906年、パリの展覧会でゴーギャンの大規模な回顧展が開かれ、若い画家たちが強い衝撃を受けました。見たままではなく、感じたままの色で描いていい。その考えは、マティスの鮮やかな色彩や、ピカソの初期の作品につながっていきます。
イギリスの作家サマセット・モームは、ゴーギャンをモデルにした小説『月と六ペンス』を書きました。安定した暮らしを捨てて絵に取りつかれる男の物語は、日本でも長く読み継がれています。
よくある質問
Q. 『我々はどこから来たのか』はどこで見られますか?
アメリカのボストン美術館が所蔵しています。展示状況は変わることがあるので、公式サイトで確認してください。
Q. ゴーギャンはなぜ「後期印象派」と呼ばれるのですか?
印象派のあとに登場し、印象派から出発しながら、それぞれ別の方向へ進んだ画家たちをまとめた呼び名です。ゴッホやセザンヌ、スーラも含まれます。本人たちがそう名乗ったわけではありません。
まとめ:一枚の絵に、人生のすべてを並べた
- ゴーギャンは株の仲買人として働きながら絵を描き、35歳で画家になった
- 『説教のあとの幻影』で、目に見えた色ではなく心の中の色を描く道へ進んだ
- タヒチは楽園ではなく、彼は自分の見たいタヒチを描いた。現地での振る舞いは今日批判もされている
- 『我々はどこから来たのか』は、右の赤ん坊から左の老女へ、人の一生を読む絵
- 死後の回顧展が、マティスやピカソら20世紀の画家たちを動かした
三つの問いは、答えを求めて書かれたものではありません。この絵の前に立った人が、自分で答えるための問いです。
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