ミュシャとは?アール・ヌーヴォーの代表作から『スラヴ叙事詩』まで、その生涯をやさしく解説

花に囲まれた女性、うねるように流れる長い髪、頭の後ろに浮かぶ丸い光の輪。ポスターやカレンダー、文房具の柄で、こういう絵を目にしたことのある方は多いはずです。描いたのはアルフォンス・ミュシャ。19世紀末のパリで一世を風靡した、チェコ出身の画家です。
日本でのミュシャ人気は群を抜いています。展覧会が開かれれば長い列ができ、関連グッズは早々に売り切れ、漫画やゲームのイラストにもその影響がはっきりと残っています。ただ、「きれいな女性の絵を描いた人」という認識で止まっている方も少なくありません。
ミュシャの物語はそこで終わりません。パリで商業デザインの頂点に立った男は、50代でその名声を投げ出し、故郷へ帰って巨大な絵に取りかかります。彼を一夜にして有名にした一枚から、晩年の大作『スラヴ叙事詩』までをたどります。
クリスマス休暇に舞い込んだ、一枚の依頼
1894年12月、パリ。ミュシャは30代半ばになっていましたが、挿絵などで生計を立てる、まだ無名に近い画家でした。
年末の印刷所に、大女優サラ・ベルナールから急な依頼が入ります。新作の舞台『ジスモンダ』のポスターを、大至急作ってほしい。ところがクリスマス休暇の真っ最中で、専属の画家はみな出払っている。たまたま印刷所に居合わせたミュシャに、お鉢が回ってきた——というのが、広く語られてきた逸話です。
年が明けた1895年の元日、パリの街角に貼り出されたポスターは、通行人の足を止めました。当時のポスターは色鮮やかで賑やかなものが主流。対してミュシャの一枚は、細長い画面にほぼ等身大のサラ・ベルナールが静かに立っているだけ。色はくすんだパステル調で、背景にはビザンティン美術を思わせる装飾模様が広がります。
サラ・ベルナール自身がこれを大いに気に入り、ミュシャは以後、彼女の舞台ポスターや衣装、舞台装置を手がける契約を結びます。無名の画家は、この一枚でパリの寵児になりました。
「ミュシャ様式」がアール・ヌーヴォーになるまで
『ジスモンダ』以降、ミュシャのもとには依頼が殺到します。タバコの巻紙、シャンパン、ビスケット、自転車。19世紀末のパリで彼が手がけた広告ポスターは、そのまま街の風景になりました。
商品広告だけではありません。ミュシャは「装飾パネル」と呼ばれる、文字のない観賞用の版画も制作します。『四季』『四つの花』『宝石』といった連作は、四人の女性に季節や宝石を託して並べたもの。高価な油絵は買えないが部屋を飾りたい、という当時の中産階級の需要にはまり、飛ぶように売れました。
当時、この様式は「ミュシャ様式」と呼ばれていました。それが後に、ヨーロッパ中に広がっていた新しい装飾芸術の運動の名で、アール・ヌーヴォー(新しい芸術)として括られていきます。植物のつるのような曲線、工芸と絵画の境目をなくす発想。ミュシャはその代表格と見なされるようになりました。
ミュシャ自身は、装飾のパターン集『装飾資料集』も出版しています。自分の絵を囲い込まず、他人が使えるデザインの型として差し出した。この姿勢も、彼の絵が世界中に広まった理由のひとつです。
日本でミュシャの人気が高い理由
日本でミュシャがこれほど愛される背景には、いくつかの縁があります。
ひとつは、アール・ヌーヴォーそのものが浮世絵から強い影響を受けていたことです。輪郭線ではっきり形を囲む描き方、平坦な色面、大胆な構図。ジャポニスムの成果が、ミュシャの画面にも流れ込んでいます。初めて見て「なんとなく懐かしい」と感じるとしたら、理由のない感覚ではありません。
もうひとつは、日本の漫画・イラスト文化への影響です。細い線で描かれた人物、髪や衣の流れる装飾、背景に浮かぶ花や光輪。少女漫画やファンタジー系のイラストがミュシャから受け取ったものは大きく、影響を公言する作家も少なくありません。読者の側も、知らないうちにミュシャ的な絵に慣れてきたわけです。
作品を見られる場所も国内にあります。大阪・堺市には、一人の日本人コレクターが集めたミュシャ・コレクションを核とする専門館があり、ポスターや装飾パネル、素描が公開されています。展示は入れ替わるため、訪問前に公式サイトで確認するのが確実です。
50代で名声を捨て、故郷へ
パリで成功を極めたミュシャには、ずっと引っかかっていたことがありました。自分は本当に描きたいものを描いているのか、という問いです。
転機は1900年のパリ万国博覧会でした。ミュシャはボスニア・ヘルツェゴビナ館の装飾を任され、そのために現地を旅します。スラヴ系の人々の暮らしと、大国に支配されてきた歴史。生まれ故郷のモラヴィア(現在のチェコ東部)もまた、当時はオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。ミュシャの中で、「スラヴ民族の歴史を描く」という構想が固まっていきます。
資金の当てはアメリカにありました。渡米して肖像画や教職で人脈を築き、実業家から長期の支援を取り付けます。そして50代のミュシャは、パリの華やかな仕事を後にして故郷へ戻り、城を借りて制作に入りました。
『スラヴ叙事詩』——20点の巨大な絵
こうして生まれたのが『スラヴ叙事詩』です。スラヴ民族の神話や歴史上の出来事を描いた全20点の連作で、大きいものは縦6メートル、横8メートルにおよびます。見上げるほどの画面に、群衆や戦場、祈る人々が広がります。
完成までにおよそ18年。ポスターの華やかさとは対照的に、画面は重く、静かで、時に悲しみに満ちています。勝利の場面より、耐えている人々の顔が多い。この連作は、独立したばかりのチェコスロヴァキアの首都プラハに寄贈されました。
発表当時の評価は、必ずしも高くありません。前衛が主流になりつつあった時代に、民族の歴史を大画面で語る絵は「古い」と見られたのです。
ミュシャの最期
1939年、ナチス・ドイツがチェコスロヴァキアに侵攻します。スラヴ民族の誇りを描き続けたミュシャは危険人物と見なされ、高齢にもかかわらず連行されて尋問を受けました。健康を著しく損ない、その年のうちに世を去ります。享年78。
華やかなポスターの画家として記憶されがちですが、その最後は、自分が生涯をかけて描いたものと正面からぶつかった結果でした。
よくある質問
Q. 「ミュシャ」と「ムハ」、どちらが正しいの?
どちらも同じ人物です。チェコ語の発音に近いのは「ムハ」で、フランス語読みが「ミュシャ」。パリで名を上げた経緯から、日本ではフランス語読みが定着しています。展覧会や書籍で「ムハ」と表記されることもあります。
Q. ミュシャの絵を見分けるコツは?
女性の頭の後ろにある円形の装飾(光輪のような形)、画面の縁取りとして使われる植物の曲線、そして輪郭をはっきり描いた上で淡い色を置く塗り方。この三つが揃っていれば、ミュシャ様式の系譜と考えてまず間違いありません。
Q. ポスターと『スラヴ叙事詩』、どちらから見るべき?
順番はポスターからで構いませんが、両方見てください。「なぜこの人があの華やかな仕事を捨てたのか」という落差こそ、ミュシャという画家の芯にあるものです。
まとめ
- 無名だったミュシャは、1895年元日にパリに貼られた『ジスモンダ』のポスター一枚で一躍有名になった
- 曲線と装飾に満ちた「ミュシャ様式」は、後にアール・ヌーヴォーの代表と見なされるようになった
- 浮世絵からの影響と、日本の漫画・イラスト文化への波及が、国内での高い人気につながっている
- 50代で商業的成功を離れ、約18年をかけて全20点の『スラヴ叙事詩』を描き上げた
画集を開くときは、ポスターのページだけで閉じないでください。後半の、色の沈んだ巨大な絵まで進むと、同じ人が描いたとは思えない画面に出会えます。
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