エゴン・シーレとは?ねじれた線と自画像でわかる、28年で駆け抜けた画家の生涯

エゴン・シーレとは?ねじれた線と自画像でわかる、28年で駆け抜けた画家の生涯

美術館でエゴン・シーレの絵の前に立つと、多くの人が一瞬たじろぎます。骨の浮いた身体、不自然に折れ曲がった指、こちらを睨みつけるような目。きれいでも心地よくもない。それなのに、なぜか目が離せなくなります。

シーレはオーストリアの画家です。グスタフ・クリムトに才能を見出され、20代前半で注目を集め、そして28歳で亡くなりました。画家としての活動期間は、わずか10年ほどしかありません。

その短さを知ってから作品を見ると、あの過剰なまでの線の意味が変わってきます。この記事では、シーレがどんな人生を送り、なぜあんな絵を描いたのかを、美術に詳しくない方に向けて順を追って解説します。

14歳で父を失った少年

エゴン・シーレは1890年、ウィーン近郊の町トゥルンに生まれました。父は鉄道の駅長です。線路と駅舎に囲まれて育った少年は、幼い頃から列車の絵ばかり描いていたと伝えられています。

その父が、シーレが14歳のときに病で亡くなります。晩年の父は精神を病み、家族の前で症状が悪化していきました。この出来事は、シーレの中に深い影を残します。後年の作品に繰り返し現れる病んだ身体、死の気配、家族への複雑な感情。その原型は、この時期にあると見る研究者が少なくありません。

父の死後、シーレは伯父の後見を受けます。伯父は画家になることに反対しましたが、周囲の説得もあり、16歳でウィーンの美術アカデミーへの入学が認められました。当時としては異例の若さでの合格です。

アカデミーを飛び出し、クリムトを訪ねる

ところがシーレは、アカデミーになじみませんでした。教授の指導は古典的で厳格。石膏像を正確に写すことを求められる教育に、シーレは早々に苛立ちます。3年ほどで学校を離れ、同じ不満を抱えた仲間と「新芸術家グループ」を結成しました。

その前後、10代のシーレは思い切った行動に出ます。当時ウィーン画壇で圧倒的な存在だったグスタフ・クリムトのもとを、自分の絵を抱えて訪ねたのです。

クリムトは28歳年上の大家でしたが、この若者の絵を評価しました。素描を買い取り、自分の絵と交換し、画商やパトロン、工房を紹介します。若い才能を後押しすることに労を惜しまない人でした。シーレにとってクリムトは、最初の理解者であり、道を開いてくれた恩人になります。

初期のシーレの絵には、装飾的な模様や金の色づかいなど、クリムトの影響がはっきり残っています。ただしその時期は長く続きませんでした。

ねじれた身体と、痛いほどの線

シーレが数年で行き着いたのは、まったく別の場所でした。

装飾を削ぎ落とし、背景を空白のまま残し、そこに人間の身体だけを置く。手足は不自然にねじれ、肩は角ばり、指は限界まで開かれている。皮膚には赤や緑の色が斑に置かれ、生きているのか傷んでいるのかわからない質感になっています。

いちばんの武器は線でした。シーレの輪郭線は、迷いがなく、途中で止まらず、身体の形を刃物のように切り出していきます。素描を見ると、鉛筆が紙の上をほとんど一筆で走っているのがわかる。この線の速さと正確さは、当時から高く評価されていました。

そして自画像です。シーレは自分自身を、驚くほどの数だけ描いています。裸で、痩せこけて、顔を歪め、時に叫び、時に無表情でこちらを見る。ナルシシズムというより、自分の身体を実験台にして「人間はどう見えるか」を執拗に確かめているような描き方です。

同じ頃、身体だけでなく風景も描いています。母の故郷である南ボヘミアの古い町を題材にした絵では、家々が斜面に折り重なり、まるで人間の集団のように見えます。シーレの手にかかると、建物も木も、どこか身体めいた表情を持ちはじめます。

21歳の挫折——ノイレングバッハの事件

1912年、シーレは人生最大の躓きを経験します。当時の恋人でありモデルでもあった女性とウィーン郊外の町ノイレングバッハに移り住んでいたのですが、住民との軋轢の末に逮捕されました。

未成年者に関わる重い嫌疑は取り下げられましたが、子どもの目に触れる場所に性的な素描を置いていたことが問題とされ、有罪となります。拘留は3週間あまり。法廷では、彼の素描の一枚が裁判官の手で焼かれたと伝えられています。

この期間、シーレは独房の中でも描き続けました。壁、扉、毛布、そして自分。留置中に残された水彩には、絵を描くことを取り上げられかけた人間の切迫がそのまま残っています。

事件はシーレの評判に傷を残しましたが、制作は止まりませんでした。むしろこの後、彼の絵からは初期の露悪的な尖りが少し引き、人物の存在感がどっしりしてきます。

戦争、結婚、そして頂点の年

1915年、シーレは中流家庭の娘エーディト・ハルムスと結婚します。長く関係を続けてきた恋人とは、この時に別れました。二人の別れをめぐる感情は、『死と乙女』と呼ばれる作品に刻まれていると読まれています。抱き合いながらすでに離れてしまっている男女の姿は、シーレの絵の中でも特に忘れがたい一枚です。

結婚の数日後、シーレは第一次世界大戦の兵役に就きます。幸い前線には送られず、捕虜収容所の事務や警備といった任務が中心で、制作を続けることが許されました。戦時下で、彼は捕虜やロシア兵の肖像を描いています。

1918年、状況が一変します。ウィーンの分離派会館で開かれた展覧会で、シーレは中心的な作家として大きな部屋を任され、作品はよく売れました。長く「危険な若手」と見られてきた画家が、ついに主役の座に着いたのです。同じ年の2月、恩人クリムトが世を去っていました。

しかしその秋、スペイン風邪の大流行がウィーンを襲います。妊娠していた妻エーディトが10月末に死亡。シーレ自身も感染し、その3日後に亡くなりました。28歳でした。制作途中だった家族像の絵は、未完成のまま残されています。

よくある質問

Q. シーレの絵はどこで見られる?
オーストリア・ウィーンのレオポルド美術館とベルヴェデーレ宮殿の美術館が、まとまった数を所蔵しています。日本国内では、企画展として海外から作品が来ることがあります。開催情報は各美術館の公式サイトで確認するのが確実です。

Q. クリムトとシーレは何が違うの?
クリムトの絵は金や模様で画面を満たし、装飾の中に人物を溶け込ませます。シーレは逆に、背景を空白にして身体だけを取り出す。同じウィーンで、装飾に包む画家と、装飾を剥ぎ取る画家が、師弟のような関係にあったわけです。

Q. 初心者はどの作品から見るといい?
まず自画像を一枚、次に素描を一枚。油彩の強い色に驚く前に、鉛筆の線だけで人体を捉えた素描を見ると、彼が単に奇抜だったのではなく、恐ろしく手の速い描き手だったことが伝わります。

まとめ

  • エゴン・シーレは1890年オーストリア生まれ。14歳で父を失った経験が、後の作品に長く影を落とした
  • 10代でクリムトに認められ、その支援を受けながら、数年で装飾を捨てた独自の様式に到達した
  • ねじれた身体、鋭い輪郭線、大量の自画像が作品の核。風景画も同じ緊張感を持つ
  • 1918年に画家として頂点に立った直後、スペイン風邪により28歳で死去した

画集を手に取るときは、油彩のページより先に素描のページを開いてみてください。一本の線がどこで止まり、どこで走っているかを追うだけで、シーレの絵は見え方が変わります。

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