アイリッシュ音楽入門|パブのセッションに指揮者がいない理由と、ジグとリールの聴き分け方

誰も合図を出していません。
パブの隅のテーブルで、フィドルを抱えた女性が、前の曲の余韻が消えないうちに次の旋律の頭を数音だけ弾く。隣の男が乗る。二小節後には、六人が同じ旋律を弾いている。
ステージはない。マイクもない。演奏している人たちは、客席のほうを向いてすらいない。
旅番組や映画で見た「あの光景」が、セッションです。アイルランド伝統音楽の、本来のかたち。コンサートホールではなく酒場の片隅で、この音楽は世代から世代へ受け渡されてきました。
曲は誰が決めているのか。なぜ全員が同じ曲を知っているのか。あの輪の中で何が起きているかを知ると、次に見るセッションの景色が変わります。
セッションに指揮者はいない——「知っている曲を持ち寄る場」のしくみ
セッションは演奏会ではありません。
楽器を持った人が三々五々集まり、輪になって座り、知っている曲を出し合う。曲が終われば話をして、また誰かが弾き始める。ギャラが出ない場も珍しくなく、店から飲み物が振る舞われる程度の関係で続いています。
進行役はいます。多くの場合、その店に長く通う地元の奏者が中心に座り、次の曲を出す役目を担う。とはいえ司会はしない。次の旋律の頭を数音だけ弾く——冒頭の光景が、そのまま合図です。
「誰でも輪に入れる」。この原則が、アイリッシュ音楽の生命線でした。だからこそ、輪に入るための作法も自然に育っています。
輪に入るときの、ゆるやかな決まりごと
第一に、まず座って聴くこと。どんな曲が出るか、テンポはどのくらいか、輪の中心が誰か。それを見てから加わっても遅くない。
第二に、知らない曲は弾かないこと。当てずっぽうで音を探るのは歓迎されません。旋律は基本的に全員がユニゾンで弾くので、ひとりの誤りが目立ちます。休んで聴くのも参加のうちです。
第三に、音量の遠慮。とくに太鼓は、同時に何人も叩くと旋律が沈むため、ひとりが担当するのが慣例です。拍手や掛け声は曲の切れ目で。
この程度の呼吸さえ守れば、旅行者が楽器を持って現れても、たいていの店は静かに席を空けてくれます。では、その輪の中で誰が何を鳴らしているのか。
フィドル、ティンホイッスル、そして「肘」で鳴らすイーリアンパイプス

セッションの音は、役割で聴き分けると一気に見通しがよくなります。
旋律を担うのはフィドル(バイオリン)とティンホイッスル。フィドルは楽器そのものはクラシックと同じですが、鳴り方が違います。長いビブラートで歌わせるかわりに、指を素早く打ちつけたり、装飾の音を差し込んだりして、旋律の骨に細かい引っかかりを作る。この装飾のクセが、地方ごと・奏者ごとの個性になります。
ティンホイッスルは、金属の筒に穴を開けただけの安価な笛です。名手が吹くと、あの単純な筒がびっくりするほど鋭く歌います。
そこに深みを与えるのが、イーリアンパイプスです。
バグパイプの一種ですが、口ではなく腕で操作します。奏者は椅子に座り、脇に抱えたふいごを肘で押して空気を送る。「イーリアン」は、アイルランド語の「肘」に由来します。屋外向けの勇壮なスコットランドのパイプとは対照的に、こちらは室内で映える柔らかく複雑な音色。習得の難しさでも知られています。
残るのは、打楽器がたった一つ。その一つが、曲の推進力を決めます。
ジグとリールの違いは「イチゴ・ミカン」で聴き分けられる

打楽器はバウロン。片手で持つ枠太鼓を、両端が膨らんだ短い棒で打ちます。役目は拍を刻むことより、旋律のうねりに寄り添って揺れを作ること。上手な奏者がいるセッションは、同じ曲でも推進力がまるで違います。
その揺れの土台になるのが、曲の「種類」です。
アイリッシュの曲は、旋律の名前より先に「これはジグ」「次はリール」と種類で呼ばれます。踊りの型と結びついた分類なので、覚えると聴き方が変わります。
リールは4拍子系。細かい音が均等にころころ流れていく、いちばん耳にする形です。セッションの終盤で速度が上がっていくのは、たいていリール。
ジグは、三つずつの塊が二つ、という数え方をします。「タタタ・タタタ」と口ずさむと、独特の跳ねが出る。日本語で「イチゴ・ミカン」と繰り返すと近い形になるので、試してみてください。それだけで、流れるリールと跳ねるジグの区別がつきます。
ほかにもホーンパイプ、スリップ・ジグ、ポルカなどの種類があります。
セッションでは、曲は単独で終わりません。同じ種類の曲を二、三曲つなげて「セット」にし、切れ目なく続けて演奏します。曲の終わりで奏者が足を踏み鳴らしたら、次へ移る合図です。
ところで、その曲を書いたのは誰か。答えは「誰でもない」。
曲は誰のものでもない——楽譜のない旋律と、店が静まる歌
アイリッシュの旋律の多くは作者不明で、楽譜ではなく耳から耳へ伝わってきました。だから同じ曲が地方によって少しずつ違う。「この曲、うちの村では別の名前だ」という会話が今も起きます。作品というより、共有された財産に近い扱いです。
歌も忘れてはいけません。
伴奏をつけず、アイルランド語で細かく節を回しながら独りで歌う「シャン・ノース」という様式があり、これが伝統の芯にあります。セッションの途中で誰かが歌い始めると、それまで賑やかだった店が静まり返る。
私は、この「店が静まる瞬間」こそがアイリッシュ音楽の核だと思っています。楽器の速さや技より、一人の声を全員が黙って聴く時間。あの緊張は、録音ではなかなか伝わりません。
その共有財産が、19世紀半ばに大量に海を渡ります。持ち主ごと。
大飢饉と移民——旋律だけを持って海を渡った人たち

19世紀半ば、アイルランドはジャガイモの凶作による大飢饉に襲われました。おびただしい人が命を落とし、さらに多くの人が新大陸へ渡ります。移民たちはほとんど何も持たないまま船に乗り、旋律だけは記憶ごと運びました。
行き着いた先のひとつが、アメリカ南部の山あい、アパラチア地方です。
ここでアイルランドやスコットランドから来たフィドルの曲が、西アフリカに起源をもつバンジョーと出会いました。この組み合わせから生まれた弦楽合奏が、のちのオールドタイム、ブルーグラスやカントリーの土台になっていきます。ブルーグラスのフィドルを聴いていて「どこかで聴いた旋律だ」と感じたなら、その勘は外れていません。
故郷を追われた人たちの音楽が、行き先の音楽そのものを作り替えた。アイリッシュ音楽の広がりは、この移民史を抜きには説明できません。
20世紀に入ると、本国でも伝統音楽を見直す動きが強まります。チーフタンズやプランクシティといったグループが伝統曲を現代の耳に届く形で演奏し、90年代にはアイリッシュダンスの舞台公演が世界的な話題になりました。
パブの片隅の音楽が、劇場と世界市場に届いた瞬間です。それでも音楽の本体は、今も片隅のほうにあります。
よくある質問
Q. 楽器が弾けなくてもセッションを楽しめますか?
まったく問題ありません。セッションの客の大半は聴き手です。静かに飲みながら聴いているのがいちばん自然な楽しみ方です。
Q. 最初に始めるならどの楽器が向いていますか?
ティンホイッスルが定番です。安価で、指づかいも素直で、初心者向けの教則本や動画が豊富にあります。
Q. 日本でセッションに参加できますか?
各地のアイリッシュパブに、定期的にセッションを開いている店があります。告知を確認し、初回は聴くだけのつもりで訪ねてみてください。
まとめ:今日はジグとリールを一曲ずつ
- セッションは演奏会ではなく、奏者が知っている曲を持ち寄る場
- 聴く・知らない曲は弾かない・音量を控える、が輪に入る基本の作法
- リールは均等に流れる4拍子、ジグは「イチゴ・ミカン」で跳ねる
- 曲は作者不明の共有財産で、地方ごとに形も名前も揺れる
- 大飢饉の移民が旋律を新大陸へ運び、カントリーやブルーグラスの土台になった
今日やることは一つ。ジグとリールを一曲ずつ聴いて、「イチゴ・ミカン」で数えてみてください。
区別がついた途端、ひとかたまりに聞こえていた音楽が、急に立体的に鳴り始めます。冒頭の輪の中で、誰が何を弾き、いつ曲が変わったのか。それが見えるようになったら、もう聴き手として輪の中にいます。
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