ゴヤ入門|宮廷画家はなぜ自宅の壁に「黒い絵」を描いたのか——サトゥルヌスまでの道

フランシスコ・デ・ゴヤ『自画像』1815年、プラド美術館蔵。晩年の画家が、暗がりからこちらを見ている
フランシスコ・デ・ゴヤ『自画像』1815年、プラド美術館蔵。晩年の画家が、暗がりからこちらを見ている

食堂の壁に、我が子を頭からかじる巨人が描いてある。

マドリード郊外の一軒家。住んでいるのは、耳の聞こえない70代の老人がひとり。来客はほとんどありません。巨人の絵は売るためでも、見せるためでもなく、ただ自分が毎日食事をする部屋の壁に、直接描かれていました。

老人の名はフランシスコ・デ・ゴヤ。スペイン国王に仕えた、首席宮廷画家その人です。

王家の肖像を描いた男が、人生の最後に選んだ画題が「我が子を食らうサトゥルヌス」でした。華やかな宮廷から闇の壁画まで、この落差がゴヤという画家の全部です。

なぜ、そんな絵を自宅に描いたのか。話は、スペインの田舎の職人の息子から始まります。

村の職人の息子が、国王の画家になるまで

ゴヤの出発点は、華やかさとは無縁でした。

1746年、スペイン北東部アラゴン地方の小さな村フエンデトードスに生まれます。父は金鍍金の職人。若い頃は美術アカデミーのコンクールに落ち続け、出世の糸口をつかんだのは王立タペストリー工場の下絵描きの仕事でした。ピクニック、日傘の女、凧あげ。壁掛け織物のもとになる、明るく楽しい風俗画を量産します。

腕は確かでした。

貴族の肖像画で評判を取り、40代でついに国王カルロス4世の宮廷画家に。のちに首席宮廷画家まで昇りつめます。村の職人の息子としては、これ以上ない成功です。

順風満帆。そのキャリアを、一度の大病が折りに来ます。

46歳の冬、音が消えた——『ロス・カプリチョス』の誕生

1792年の終わりから翌年にかけて、ゴヤは重い病に倒れます。

命は取りとめました。代わりに、聴力をほぼ完全に失います。46歳。人の声も、街の喧騒も、音楽も消えた世界で、筆だけが残りました。

ここから絵が変わります。

注文仕事の合間に、頼まれてもいない版画の連作を彫り始めました。1799年に売り出された『ロス・カプリチョス』、全80点。ロバに診察される人間、魔女の宴、そして「理性の眠りは怪物を生む」と題された、うつ伏せの男に夜の鳥が群がる一枚。明るいタペストリーの下絵とは別人の仕事です。

社会の愚かさを笑う風刺画は、危険な仕事でもありました。当時のスペインには、信仰を取り締まる教会の法廷「異端審問所」がまだ生きていたからです。

その異端審問所に、ゴヤは後年、本当に呼び出されます。理由は版画ではなく、一人の女性を描いた2枚の絵でした。

『裸のマハ』と『着衣のマハ』——なぜ同じ女性を2枚描いたのか

フランシスコ・デ・ゴヤ『着衣のマハ』プラド美術館蔵。『裸のマハ』とまったく同じポーズで横たわる
フランシスコ・デ・ゴヤ『着衣のマハ』プラド美術館蔵。『裸のマハ』とまったく同じポーズで横たわる

同じ女性が、同じソファに、同じポーズで横たわる絵が2枚あります。

1枚は服を着て、もう1枚は裸で。「マハ」とは当時のマドリードの粋な町娘を指す言葉です。神話の女神という言い訳なしに、実在の雰囲気をまとった裸婦を描くことは、当時のスペインでは許されないことでした。

2枚は宰相ゴドイのコレクションから見つかっています。壁に掛けた『着衣のマハ』を仕掛けで動かすと、下から『裸のマハ』が現れる仕組みだったと伝えられます。秘密の部屋で楽しむための、注文主の道楽です。

つけを払わされたのは画家でした。

ナポレオン戦争後の1815年、ゴヤは異端審問所に召喚され、『裸のマハ』について問いただされます。処罰は免れたものの、記録には「わいせつな絵」と残りました。モデルの正体は今も謎です。恋仲がうわさされたアルバ公爵夫人だという説、ゴドイの愛人だという説。決着はついていません。

あなたがプラド美術館でこの2枚の前に立つなら、並んで掛かっているのを見られます。かつては見比べることすら許されなかった2枚です。

異端審問より先に、ゴヤはもっと大きな災厄をくぐっていました。戦争です。

『1808年5月3日』——白いシャツの男は、なぜ両手を挙げているのか

フランシスコ・デ・ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』1814年、プラド美術館蔵。ランタンの光が、銃殺される男の白いシャツを照らす
フランシスコ・デ・ゴヤ『マドリード、1808年5月3日』1814年、プラド美術館蔵。ランタンの光が、銃殺される男の白いシャツを照らす

1808年、ナポレオン軍がスペインを占領します。5月2日、マドリードの民衆が蜂起。翌3日の未明から、報復として市民の銃殺が始まりました。

ゴヤがこの夜を絵にしたのは、フランス軍が去った後の1814年です。

画面の右半分は、銃を構えるフランス兵の列。顔は見えません。左半分は、これから撃たれる市民たち。中央でランタンの光を浴びた白いシャツの男が、両手を大きく挙げています。降伏のポーズではなく、磔刑のキリストを思わせる姿勢。名もない処刑の犠牲者を、画面の主役に据えた構図です。

それまでの戦争画は、勝者をたたえるものでした。英雄が馬にまたがり、敵が足元に倒れる。ゴヤはその型を捨て、撃つ側を顔のない機械として、撃たれる側を一人ひとりの人間として描きました。

この絵の構図は、のちにマネの『皇帝マキシミリアンの処刑』や、ピカソの『ゲルニカ』へ受け継がれていきます。

戦争と病と審問をくぐり抜けた画家は、70代で街を離れました。行き先は、郊外の一軒家。冒頭の食堂です。

「聾者の家」の壁に描かれた14枚の「黒い絵」

フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』1819-1823年頃、プラド美術館蔵。「聾者の家」の食堂の壁に描かれた1枚
フランシスコ・デ・ゴヤ『我が子を食らうサトゥルヌス』1819-1823年頃、プラド美術館蔵。「聾者の家」の食堂の壁に描かれた1枚

1819年、73歳のゴヤはマドリード郊外の家を買います。

家には前から「聾者の家(キンタ・デル・ソルド)」という呼び名がありました。前の持ち主も耳が聞こえなかったための偶然です。耳の聞こえない老画家が、聾者の家に住む。できすぎた話ですが、名前は先にありました。

その家の1階と2階の壁に、ゴヤは油絵の具で直接絵を描いていきます。全部で14枚。注文主はいません。タイトルもつけず、誰かに見せた記録もほとんど残っていません。後世が「黒い絵」と呼ぶ連作です。

食堂にあったのが『我が子を食らうサトゥルヌス』でした。

我が子に王座を奪われるという予言を恐れ、生まれた子を次々のみ込むローマ神話の農耕神サトゥルヌス。神話画の伝統的な画題で、ルーベンスも描いています。ただしゴヤのサトゥルヌスに、神の威厳はありません。闇の中で目を見開き、髪を振り乱し、すでに頭のない我が子の腕にかじりつく。理性を失った、ただの老人の顔です。

私は初めてこの絵の前に立ったとき、怖さより先に、目が離せなくなりました。見開かれた両目が、食らっている本人がいちばん怯えているように見えたからです。

壁画は1870年代に壁ごと剥がされ、キャンバスに移されて、今はプラド美術館に並んでいます。ゴヤ自身は1824年にスペインを離れ、フランスのボルドーで1828年に没しました。82歳。壁の絵を、彼は置き去りにしたままでした。

よくある質問

Q. 「黒い絵」はどこで見られますか?
14枚すべてがマドリードのプラド美術館に集められています。『着衣のマハ』『裸のマハ』『1808年5月3日』も同じ美術館の所蔵です。開館情報は公式サイトで最新情報を確認してください。

Q. なぜゴヤは「近代絵画の父」と呼ばれるのですか?
注文主のためではなく、自分の内面のために描いた点が、後の近代美術の先駆けとされるからです。戦争を英雄抜きで描き、悪夢や狂気を主題にした画家は、当時ほかにいませんでした。マネ、ピカソ、シュルレアリスムの画家たちが、それぞれゴヤを参照しています。

Q. マハのモデルは結局誰なのですか?
確定していません。アルバ公爵夫人説と、宰相ゴドイの愛人ペピータ・トゥドー説が古くから並び立っています。顔だけ後から描き直されたように見えるという指摘もあり、謎のまま残されています。

まとめ:宮廷から壁の闇まで

  • ゴヤは村の職人の息子から、スペインの首席宮廷画家まで昇りつめた
  • 46歳で聴力を失い、版画集『ロス・カプリチョス』から作風が一変した
  • 『裸のマハ』は異端審問所に呼び出される騒ぎとなり、モデルは今も謎
  • 『1808年5月3日』は、勝者ではなく撃たれる市民を主役にした最初期の戦争画
  • 晩年、自宅の壁に注文主なしで描いた14枚が「黒い絵」。すべてプラド美術館にある

今日やることは一つ。『我が子を食らうサトゥルヌス』の画像を開いて、巨人の両目だけを見てください。食堂の壁の前で毎日食事をしていた老画家が、そこに何を描き込んだのか。目を見れば、この記事の答え合わせになります。

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