一夜でパリを塗り替えたポスター——ロートレックとムーラン・ルージュ

アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック『ムーラン・ルージュ(ラ・グーリュ)』1891年、メトロポリタン美術館蔵
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック『ムーラン・ルージュ(ラ・グーリュ)』1891年、メトロポリタン美術館蔵

1891年の秋、パリ。

一夜のうちに、街の壁という壁へ同じ絵が貼り出されました。黒いシルエットの群衆。その手前で白いスカートを蹴り上げる踊り子。縦はおよそ190センチ、人の背丈を超える大きさです。

立ち止まる人が相次ぎ、剥がして持ち帰る者まで現れたと伝えられます。

描いたのは26歳の画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック。南フランスの名門伯爵家に生まれ、身長はおよそ150センチでした。

広告は使い捨ての紙切れで、芸術は額縁の中のもの。当時の常識は、この一枚から崩れはじめます。

ダンスホールの宣伝ポスターの、何がそんなに新しかったのか

貼り出されたのは、モンマルトルのダンスホール「ムーラン・ルージュ」の宣伝です。開店は1889年。屋根の上で赤い風車が回る、パリでいちばん騒がしい店でした。

それまでのポスターの主流は、ジュール・シェレという人気作家が描く、ふわふわ宙を舞うような美女たちでした。かわいいけれど、誰でもない女性たち。

ロートレックは逆をやりました。

描いたのは実在のスター、ラ・グーリュ。「食いしん坊」というあだ名で呼ばれた看板ダンサーです。手前の灰色の男は、相方の「骨なしのヴァランタン」。客たちは顔のない黒い影に塗りつぶされ、照明のガス灯は黄色い丸だけ。色数を絞り、名前のある人間を真ん中に置く。

道ゆく人が1秒で「あの店の、あの踊り子だ」とわかる絵です。

ところで、伯爵家の跡取りがなぜ深夜のダンスホールに入り浸っていたのか。話は10年ほど前にさかのぼります。

伯爵家の跡取りは、なぜ夜のモンマルトルへ下りたのか

ロートレックは1864年、アルビの貴族の家に生まれました。本来なら乗馬と狩猟に生きるはずの身分です。

13歳と14歳のとき、立て続けに脚を骨折しました。左と右の大腿骨。骨はもろく、脚はそこで成長を止めます。胴は大人、脚は少年のまま。馬にも狩りにも、社交界の舞踏会にも、居場所はなくなりました。

絵だけが残りました。

やがて彼は家柄の世界を離れ、画家や踊り子や無頼漢が肩を寄せるモンマルトルの丘に住みつきます。ムーラン・ルージュが開店すると毎晩のように通い、席でスケッチを重ねました。踊れない男が、パリでいちばん踊りに近い場所にいたことになります。

私は、ロートレックの絵の優しさはこの位置から来ていると思っています。舞台の上のきらめきではなく、楽屋の疲れまで見える距離。その視線がいちばん出ているのが、ジャンヌ・アヴリルを描いた仕事です。

ジャンヌ・アヴリルを「商品」として描かなかった画家

『ジャンヌ・アヴリル』1899年のポスター。黒いドレスに蛇が巻きつく、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵
『ジャンヌ・アヴリル』1899年のポスター。黒いドレスに蛇が巻きつく、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵

ジャンヌ・アヴリルは、ラ・グーリュと並ぶムーラン・ルージュの花形でした。あだ名は「ラ・メリニット」、爆薬の名前です。ところが素顔は物静かで、どこか影のある人だったと伝えられます。

ロートレックは彼女を何度も描きました。舞台で跳ねる姿だけではありません。ダンスホールを一人で出ていく後ろ姿のような、宣伝には向かない瞬間まで描いています。

1899年のこのポスターは、アヴリル本人の注文で作られました。画家の体がすでに壊れかけていた時期です。それでも彼女は、自分のポスターをこの男に頼みました。

踊り子は絵の道具ではなく、絵の依頼主にもなる一人の人間だった。二人の関係が、それを示しています。

そしてもう一人、ロートレックを名指しで求めた歌手がいました。

「あのポスターを貼らないなら歌わない」——シャンソン歌手ブリュアン

『アンバサドゥール、アリスティド・ブリュアン』1892年。黒い帽子と赤いマフラーは本人のトレードマークでした
『アンバサドゥール、アリスティド・ブリュアン』1892年。黒い帽子と赤いマフラーは本人のトレードマークでした

アリスティド・ブリュアンは、モンマルトルの酒場で庶民の言葉を使って歌う人気歌手でした。今でいうシャンソンの、荒々しいご先祖です。

1892年、彼はシャンゼリゼの高級店アンバサドゥールに出演することになり、ポスターをロートレックに頼みます。仕上がったのは、黒い帽子に黒いマント、首元に赤いマフラーだけの大胆な絵。店の支配人は「下品だ」と嫌がりましたが、ブリュアンが「これを貼らないなら歌わない」と押し切ったと伝えられます。

顔の細部より、色と形の組み合わせで人を覚えさせる。

ほとんどロゴの発想です。100年後の広告デザインが教科書にする手法を、ロートレックは石版画の上で先にやっていました。この思い切った省略には、はっきりした手本があります。

浮世絵から学んだのは、ためらいなく「切る」勇気

『ディヴァン・ジャポネ』1893年。舞台の歌手は画面の上端で首から上が切れています
『ディヴァン・ジャポネ』1893年。舞台の歌手は画面の上端で首から上が切れています

「ディヴァン・ジャポネ」は「日本の長椅子」という名の小さな店。当時のパリは日本趣味の流行のただ中で、ロートレック自身も浮世絵を集めていました。

このポスターの主役は、客席で見物するジャンヌ・アヴリル。では舞台の歌手はどこか。

左上です。首から上が、画面の外に切れています。

それでも当時の客にはイヴェット・ギルベールだとわかりました。長い黒手袋が彼女の代名詞だったからです。輪郭線で形を締め、影を捨てて色を平らに塗り、主役以外は大胆に切り落とす。どれも浮世絵の版画がやっていたことでした。赤い丸に組み文字のサインを押すやり方まで、落款そっくりです。

あなたがスマホで撮った写真を切り抜くとき、やっているのはこれと同じ操作です。どこを切れば伝わるか。ロートレックはその判断が、飛び抜けて速く、正確でした。

36歳で止まった筆と、母がアルビに残したもの

夜の世界に生きた代償は、酒でした。

アブサンをはじめとする深酒で体を壊し、30代半ばで療養所に入ります。そこで彼は記憶だけを頼りにサーカスの絵を描き続け、回復を示そうとしたと伝えられます。1901年、母の見守る館で亡くなりました。36歳でした。

画家としての活動はおよそ15年。そのあいだにポスター約30点のほか、油彩だけでも数百点を残しています。息子の死後、母はまとまった作品を故郷アルビに寄贈し、それが今のトゥールーズ=ロートレック美術館の土台になりました。

没後70年をとうに過ぎ、作品はすべてパブリックドメイン。壁に貼られて雨で破れていくはずだった広告が、美術館とネットの両方で生き残ったことになります。

よくある質問

Q. ムーラン・ルージュは今もありますか?
あります。モンマルトルの同じ場所で、赤い風車を回しながらショーを続けています。公演や料金の最新情報は公式サイトで確認してください。

Q. 同じポスター作家のミュシャとは、どう違うのですか?
ミュシャは女性を花と装飾で包み込み、画面全体を美しく飾る方向に進みました。ロートレックは逆に、飾りを削って人物の癖と現場の空気だけを残します。同じ時代のポスターでも、足し算のミュシャ、引き算のロートレックです。

Q. 作品はどこで見られますか?
まとまって見るなら南フランス・アルビのトゥールーズ=ロートレック美術館。オルセー美術館ほか世界の主要美術館にも所蔵があります。パブリックドメインなので、美術館の公式サイトで高解像度画像を無料で見られる作品も多くあります。

まとめ:1秒で伝わる絵は、こうして生まれた

  • 1891年の『ムーラン・ルージュ』のポスターは、名前のある踊り子と大胆な省略で広告を芸術に変えた
  • 少年期の骨折で脚の成長が止まり、貴族の世界から夜のモンマルトルへ移った
  • ジャンヌ・アヴリルやブリュアンを、商品ではなく個性のある人間として描いた
  • 平らな色面と思い切った切り取りは、収集していた浮世絵から学んだ技法
  • 1901年に36歳で死去。母の寄贈がアルビの美術館になった

今日やることは一つ。『ディヴァン・ジャポネ』を開いて、首のない歌手を探してください。黒い手袋だけで誰かわかる——1891年の秋、パリの壁の前で人々が足を止めた理由が、そこにあります。

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